共産党が社会主義「体制」をどう見てきたかについて、これまで「民族の自由」の観点から論じてきた。次に「政治的自由」の観点に移る。

 

 「民族の自由」については、帝国主義は「民族の自由」を侵す側であり、社会主義はそれを擁護する側であるというのが、共産党の61年綱領に明記された観点であった。だから、社会主義国が時々「民族の自由」を侵した際、さすがにそれを擁護することはできず、徹底的に批判してきたが、社会主義「体制」が本来は平和主義であるという認識から抜け出すのは容易ではなかったというのが、おおよその結論である。

 

 一方、「政治的自由」については、61年綱領の束縛はなかったはずだ。61年綱領は社会主義の政治体制について賛美していたわけではなかったのだから。それどころか、61年綱領が社会主義革命ではなく民主主義革命を当面の目標としていたことは、ソ連型の社会主義政治体制には批判的であることを意味していたはずである。とりわけ、61年綱領の「名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する」という規定は、複数政党制をはじめとして日本国憲法型の政治体制、「政治的自由」を掲げたものだと思われた。

 

 けれども、61年綱領を制定してしばらくの間は、そのあたりは明確ではなかったのが真実である。それをリアルに知ったのは、不破哲三氏が10年ほど前に講師として行った「理論活動教室」であった。

 

 不破氏はそこで、68年のチェコ事件を契機にマルクスやレーニンの民族自決権に関する研究を開始し、それとの関係でロシア革命についても深めたとする。その結果、「干渉戦争のさなかでも複数の政党が存在していたこと、最初から『一党制』を原則としてはいなかったことも分かりました」と述べた。さらにこう続けている。

 

「複数政党制の問題は、次の党大会を待たずに『テスト』する機会がめぐってきました。68~69年に毎日新聞が、当時存在した五つの政党に、『政権をとったらどんな安全保障政策をとるのか』を語らせる企画をしたのです。他の4党が野党の立場で質問し、それに答えるというやり方です。……

 共産党をやりこめようと自民党を代表して質問にたったのは中曽根康弘氏でした。『(共産党政権は)複数政党の存在を認めますか。政党支持の自由、こういう関係はどうですか』という質問に、宮本顕治『首相』が『それは認めます』と即答。あてが外れた中曽根氏は『現在と同じような自由さを認めるわけですね』とさらに質問。宮本氏は『憲法を守る限り政党の差別はしません』ときっぱり答えました。」

 

 そうなのだ。これは逆に読むと、61年綱領をつくったけれども、民主主義革命でめざす政治体制が複数政党制を認めたものかどうかは、68~69年までは明確ではなかったということなのである。70年代になって共産党に入った私の世代には、複数政党制など当たり前なのだが、61年綱領の初期はそうではなかったのである。

 

 

 画像は、その毎日新聞の討論企画が書籍化されたものだが(どういうわけか2冊あるので、ご希望があればおわけします)、じつはこの討論会で宮本氏は「権利を制限しない選挙制が望ましい」とは述べているが、「複数政党制を認める」とまでは明言していない。それでも、中曽根氏が、共産党がめざす最終政府形態はソ連型や中国の人民公社型かと問い詰めたのに対して、宮本氏は「名実ともに国会を国の最高機関とする」としている61年綱領を引いて、「中国の人民公社型だとか、ソビエト型だとかいうことは考えていない」と突っぱねている。不破氏が述べたように、中曽根氏の「あてが外れた」様子は伝わってくる。

 

 では、共産党はこの時点で、社会主義体制の「政治的自由」は、複数政党制なども含めて、資本主義体制の「政治的自由」より劣ったものだという認識に立ったのか。そうではなかったところが複雑である。(続)