無茶苦茶長くなりそうなので、ここで今後の見取り図をつくっておく。途中、見取り図自体を修正するかもしれないが、それでも多少は役に立つだろう。

 

 1976年の第13回臨時党大会で、共産党は「自由と民主主義の宣言」を採択する。これは共産党が自由と民主主義の旗頭であることをアピールしようとしたものだが、内容面での最大の特徴は、自由を3つに分けたことにある。「生存の自由」「政治的自由」「民族の自由」である。

 

 歴史的に見ると、自由とはあくまで「政治的自由」のことであった。現在においても共産党が自由を語る場合、国民がイメージするのは旧ソ連や中国などでの自由の欠如なので、「政治的自由」を抜かした自由論というのは、国民多数からは「政治的自由にふれたくない共産党」の感想を持たれるであろう。マルクスが『資本論』や『草稿集』でどう語っているかは別にして、共産党が外に向かって自由論を語る場合は、その現実を直視しなければならない。

 

 「自由と民主主義の宣言」で自由を3類型に分けたのも、政治的自由だけで勝負していては、社会主義「体制」には勝ち目がない現実が背景にあった。70年代前半、選挙を前にしたテレビ討論会があったが、「自由の問題では資本主義国と社会主義国のどちらがすぐれていると思うか」の問いに対して、不破書記局長(当時)、「政治的自由については資本主義でしょうね」と冷静に答えたのを印象深く覚えている。

 

 それに対して、3つの自由を提示することにより、防戦一方から攻勢に出ようというのが、当時の共産党の思惑だったわけだ。「生存の自由」という分野になると、資本主義は搾取を温存しているが社会主義はそうではない(事実は違っていたが)などの議論を立てられる可能性があった。「民族の自由」についても、植民地支配をしたのは資本主義国だという歴史的事実があった(ソ連の東欧支配や中国の覇権主義に目をつぶれば)。

 

 とはいえ、自由を「政治的自由」だけに止めないという考え方自体は、国際的な自由や人権の発展を踏まえたものではあった。1966年に採択された国際人権規約も(発効は1976年)、社会権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)と自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)の2つに区分されたのであり、「生存の自由」の確保は国際社会の大命題の1つであった。他民族を支配することは、支配された民族の自由を奪うものであり、絶対に許されるものではなかった。

 

 この連載では、この3つの自由にそって、日本共産党の社会主義「体制」論の変遷を叙述していく。順序としてはまず、61年綱領との乖離がもっとも大きかった「民族の自由」であり、次いで、大揺れに揺れた「政治的自由」である。最後に「生存の自由」であるが、ここで最近の志位氏などの自由時間論を核心とする自由論にも触れることになるだろう。(続)