再開する。戦後の共産党が社会主義「体制」をどう見てきたかが主題であるが、この間、志位和夫氏が「社会主義と自由」に関する講演を行ったりしたので、「体制」論に関係する範囲でそれにも触れるかもしれない。

 

 それにしても、共産党の1961年綱領を現時点で再読して感じるのは、社会主義「体制」論の分裂である。それに対する見方が分裂していることである。

 

 一方で、61年綱領はスターリン批判の産物だ。スターリンの干渉を背景にして50年問題が発生し、共産党が深刻な分裂を体験することになった。それを克服する過程で、日本における革命路線を策定する際には外国に頼らず(いまとなっては当然のことだが、当時の国際共産主義運動ではそうではなかった)、自分たちの頭で考え、議論し、決定することになった。

 

 これはスターリン(あるいはそのやり方)に対する根源的な批判なしにはできなかったものだ。56年のスターリン批判のあと、どの国の共産党も路線問題を模索していたが、もっとも先を進んで議会を通じた平和革命路線を模索していたイタリア共産党の場合、指導部(日本の場合の常任幹部会)の議事録が残っており、出版もされているそうだ。それを読んだ人の話を聞いたが、あのイタリア共産党の、しかも異なる路線を追求していたトリアッティの時代の議事録には、異なる意見がぶつかり合う様子がリアルに残っているという(*)。それでも当時、イタリア共産党大会に出て来る代議員の多数はソ連派であって、しかも指導部内の激論は一般党員には隠され、統一した方針が大会には提起されるので、大きな転換は容易ではなかった。

 

 それなのに日本の共産党は、まったく独自の革命路線を確定したわけだ。まず民主主義革命を行うという路線である(社会主義への2段階革命論)。それだけでなく、よく知られているように、綱領策定途上の60年11月~12月に開かれた「81か国共産党・労働者党代表者会議」に参加した宮本顕治らの代表団は、その日本の革命路線こそが世界に共通するものだと主張した。イタリア共産党などは、議会を通じた平和革命に傾斜していたが、それでも社会主義革命論を維持していたため、以下のように地域条件付きの路線として会議の「声明」のなかで採択されることになる。

 

「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配下にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義諸国では、労働者階級と人民大衆の主要な打撃は、アメリカ帝国主義の支配並びに民族の利益を売り渡している独占資本とその他の国内反動勢力にたいしてむけられている。このたたかいのなかで、真の民族独立と民主主義の達成をめざす革命の勝利のためにたたかっている民族のすべての民主的・愛国的勢力は、統一戦線に結集しつつある。真の民族独立と民主主義を獲得することは社会主義革命の任務の解決に移行する条件を作り出すのである。」

 

 この宮本の自信がどこから来るのか。いくら50年問題の体験があるからといっても、当時の世界の共産主義運動からすると、想像もできない。

 

 他方で、それなのに、61年綱領の世界観、社会主義「体制」論は、スターリン批判以前のままである。スターリン批判が大事だという問題意識もまったく顔を見せていない。そのギャップはどこから生まれたのだろうか。(続)

 

(*最近ある学者から日本の常任幹部会の議事録、いわゆる常幹メモではイタリアのように異論を記したものが残っているのかと聞かれ、日本の場合は一致したことだけを書いたものと、異論まで記したはいるが常任幹部会委員だけに配られるものの2種類の議事録が存在する事情を説明した。とはいえ2種類が存在したのは私が在職した当時であり、志位氏が党首として実権をふるうようになって以降は1種類になったと推測される。異論が出せなければ2種類を作成する必要がないので。)