1956年2月のソ連共産党大会で行われたスターリン批判は、それまでソ連に忠実だった各国共産党に大きな衝撃を与えた。とりわけイタリア共産党は、スターリンが敷いた路線を批判し、克服するために理論的な研究を深めた(構造改革路線)。

 

 日本共産党は、その党大会でのスターリン批判について、当初は知らされなかったとはいえ、イタリアでの議論はすぐに伝わり、これまで自分が信じてきたものが崩れ去るほどの衝撃のなかで、党員のなかでは精力的な研究が進んでいく。56年末から57年にかけて出版された上田耕一郎と不破哲三の『戦後革命論争史』は、その重要な成果である。

 

 一方、この時期は、50年問題で追いやられていた宮本顕治が党指導部に復帰し、新しい綱領の制定に向けた党内議論を開始していた。ではその宮本は、スターリン批判をどう捉えていたのか。宮本の言動を事細かに記録して刊行された『宮本顕治の半世紀譜(増補版)』を見てみよう(スターリン批判のあった56年から綱領制定の61年に限定して)。

 

 歴史の事実として、56年2月に「スターリン批判」があったことは出てくる。しかし、宮本自身が何を語り、どう行動したかの記録を見る限り、「スターリン」の名前も出てこない。

 

 他方で、宮本がこの時期、ソ連を評価する見解はいくつか出したことは掲載されている。56年12月のハンガリー事件に際して公表した論文の題名や(中身に触れていないが、事件は帝国主義の策謀と位置づけるソ連と同様の認識を表明したものである、「社会主義国は一貫して平和政策」と題する「アカハタ」論文などである。

 

 これは、スターリン批判が大いに話題になっていた当時の状況からすると、かなり違和感はある。6月4日に米国務省が秘密報告を公表すると、「毎日新聞」は10日から17日にかなりの部分を翻訳して掲載したし、全文訳は「中央公論」8月号に出されている。「世界」8月号に志賀義雄が「日本共産党の立場」と題する寄稿をしているそうだが(未入手)、宮本はじめ共産党指導部は全体として口をつぐんでいたのである。

 

 一方、とりわけ若い共産党員、学生党員のなかでは、スターリン批判のあまりの衝撃の大きさから、ソ連を批判しない党指導部への批判が強まる。それがトロツキスト連盟に始まる新左翼各派の結成へとつながっていくわけだ。当時、京都大学で党員として活動していた人に話を聞いたことがあるが、仲間の党員がトロツキスト各派に雪崩を打って入っていくのをどうしようもなかったと述べておられた。

 

 では、新左翼各派はこの時点で反スターリンという確固とした立場に立ったが、共産党はそうではなかったということなのか。そうではない。新左翼各派の共産党との決別は、党が反スタの立場に立たないというだけでなく、平和革命路線に踏み切ろうとしていたことなど、いろいろな要素から構成される。

 

 しかも新左翼各派は、その後の実態が示すように、内部の粛清などに明け暮れることになる。内部の粛清はスターリンの所業そのものであり、じつは反スタなどとは恥ずかしくて言えない代物だったのだ。

 

 それに対して、共産党は自主独立路線を確立することで、ソ連の影響に左右されない路線を可能とした。一方、61年綱領が打ち出した社会主義「体制」論は、社会主義国への幻想を含むものだった。不破哲三が「スターリンの中世的な影」と名づけたものである。

 

 いま大事なことは、なぜそうなったのか、それを克服するのにどんな努力が必要となったのか、いま本当に克服されているのかであろう。(続)