さて、辞書編集者の世界が政治家の世界に似ているという話である。どちらの世界にいる人にも怒られるかもしれないが、私の実感はまさにそうなのだ。

 

 昨日、世の動きに敏感な若い編集者がと古い編集者との間で、以下のようなやり取りがあったことを紹介した。原作の話である。

 

「新しい時代の辞書なんじゃないですか。多数派におもねり、旧弊な思考や感覚にとらわれたままで、日々移ろっていく言葉を、移ろいながらも揺らがぬ言葉の根本の意味を、本当に解釈することができるんですか。」

 これに対して、上司が言う。「慎重を期するあまり、辞書ってちょっと保守的なところもあるんです」と。

 

 若い編集者は、まあここでは進歩的な立場の政治家だとしよう。いまで言えばトランスジェンダーとかをめぐり、古い立場を批判する。しかし、古い政治家は「政治ってちょっと保守的なところもあるんです」と言って、改定を躊躇する。

 

 結局、法律の全面改正は見送られ、部分的な改良に止まる。ヘイトスピーチ解消法はできるが罰則はないとか、LGBT理解増進法はできるが、「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」という内容が盛り込まれるとか、そんな感じである。

 

 この水準のものができるというのは、国民全体を見渡せば、それがおおよその一致点だからである。その水準のものをけん引する政党だけが政権を担えるし、その水準の辞書が商売上は利益を叩き出すものになるということだ。

 

 一方、時代の先を行く立場は、野党のままで止まるしかない。それをよしとするのか、政権を担える政党になるために、進歩的な立場と保守的な立場の混在する微妙な立ち位置を見いだすのか。それが問われることになる。

 

 辞書の世界でも特殊な分野に特化したものがあるように、政治の世界でも市民運動の立場に徹するという選択肢もあるのだろう。それがないと政治の進歩が遅れるので、大事な立場だ。問題は、その道を重視しつつ、国民多数の立場に寄り添い、いったん政権を担うことで政治を変える力を得るのか。そこが問われるということだろう。

 

 そんなことを考えながらテレビを見ていたけれど、雑念という感じではなかった。テレビはテレビで楽しめている。「愛」の語釈が結果としてどうなるのか、最終回までに出てくるのだろうか。

 

 ところで、13年前の原作では、この新人が感じた違和感として、「男」と「女」がある。そこではは実物の辞書である「大辞林」が出ていた。「男」は、「ヒトの性のうち,女を妊娠させるための器官と生理をもつ方の」とあり、「女」は「ヒトの性のうち,子供を生むための器官と生理をもつ方の性」となっているのである。現行の辞書を電子版で見たけれど、まったく変わっていなかった。ここは変わらないかもしれないね。

 

 明日はメルマガの発行日なので、ブログではそのチラ見せ。明後日からは、「本日の『赤旗』政治部長」の連載でもするかな。

 

 なお、私の『13歳からの日米安保条約』が点字本になりますので、ショート動画で紹介しておきました。ここです