さて、昨日書いたように、現在の党中央は、50年問題当時の共産党の武装闘争について、「党が分裂した時期の一方の側の行動」だとしている。だから、他方の側(宮本顕治ら)は、武装闘争に断固として反対したと思わされている。「中核自衛隊」や「山村工作隊」をつくる根拠となった51年綱領にも、宮本らは反対したと多くの党員は考えていることだろう。

 

 しかし、そう簡単ではない。だって、近刊の『日本共産党の百年』も、そこは慎重に書いている。宮本らが武装闘争に反対したのは、51年綱領が議論される直前までであって、51年綱領には反対していないことが、この著作からも理解できるのだ。

 

 『日本共産党の百年』で宮本らが武装闘争反対したとの記述は2箇所存在する。両方を引用しよう。

 

 「宮本らは51年1月、雑誌『解放戦線』を創刊し、分派による武装闘争方針が党の路線からの完全な逸脱であり、党と運動を『破壊にみちびく』ときびしく批判しました。」

 「宮本らは51年2月末、あらたに全国統一会議をたちあげ……。……中央委員会の機能回復をめざしました。そして、徳田らの『軍事方針』に反対して、『民主民族戦線の発展のために』(51年7月)などの方針をだしました。」

 

 このような記述があるから、党員は、宮本は51年綱領にも反対したのだろうなと、ついつい思ってしまう。しかし、51年綱領が採択されたのは、51年10月に開かれた5全協である。一方、『日本共産党の百年』が宮本らの武装闘争反対の根拠として示すのは、51年7月までの言明なのである。『日本共産党の百年』で51年綱領の叙述が開始されるや、宮本らが反対していたことを示す根拠は示されなくなるのだ。

 

 それは当然のことだ。だって、宮本らは、51年綱領に公然と反対しないことを決めたのである。その事情を、この本は次のように書いている。

 

 「全国統一会議は、……組織解散の方向をうちだし、51年10月、声明『党の団結のために』で、解散を宣言しました。これは、二つの組織が長期にわたって対抗することが、将来、統一を可能にする状況が生まれたさいにその事業を困難にしかねないと考えての措置でした。」

 

 私はこのときの宮本氏の態度を支持している。だから、土方さんが改竄した私のブログ記事のように、「現在の党指導部の方針に反対していたとしても、当時の宮本氏のように、必ずしも明確に反対すると言わないやり方もある」と書いたのである。

 

 土方さんは、この時の宮本の態度を、どう評価しているのであろうか。私に対する漫罵と同じく「二心的な議論」とか「たいへんに卑劣なやり方」と思っているのだろうか。宮本がそういう態度をとったのは誤りで、私に対して土方氏が求めたように、宮本は51年綱領の武装闘争方針に対して、「『党指導部の方針に反対』であるなら、……堂々と表明し、真剣な討論を行うべき」だったと考えているのだろうか。

 

 そうであるならば、『日本共産党の百年』の立場も間違いであると、土方さんは「堂々と」表明すべきであると思う。私が「当時の宮本氏のように」行動すべきだと説いていることは批判し、「当時の宮本氏」の行動は批判しないというのでは、まったく筋が通らない。(続)