〈50年問題とか敵の出方論は過去の問題であり、そんなことにこだわっているのでなく今の問題を語れ、という方がいます。今の問題は重要ですが、この連載で取り上げている問題は、公安調査庁が「今」共産党を破防法の調査対象団体にしている理由の問題であり、これが放置されているから、毎年、維新の議員などが国会で取り上げ、毎年、それが報道されて「反共攻撃」が吹き荒れる根源となっています。しかも共産党自身がそれを放置しているので、私がやらなければ誰がやるのだという気持で連載しております。ご容赦ください。〉

 

●間違いは認め、反省すべきは反省して、公安調査庁に迫っていく

 

 ではどうするべきか。私は、五〇年問題の当事者であった宮本顕治氏の発言や行動を正確にふまえ、以下のように考えるべきだと思います。

 

 かつて宮本氏は、自身の主張と行動を詳細に記録した『宮本顕治の半世紀譜(増補版)』を刊行しました。それを眺めると、次のような事実経過が分かります。

 

一、当時の日本共産党が平和革命の方針をとっていることについて、コミンフォルムが誤りだと論評したのに対して、徳田派はそれを批判し、宮本顕治(国際派)氏はそれを受け入れるべきだと主張しました。とはいえ、宮本氏は暴力革命を主張したのではなく、米軍の占領を終わらせなければ平和革命はなしえないことを主張したのです。

二、徳田派は第六回大会で選出された党中央委員会を解体し(党規約違反)、宮本氏らを排除して不正常な党運営を行うようになり、その過程で、暴力革命路線に傾斜していくようになりました。それに対して宮本氏は、徳田派を批判する党組織を率いて、「全国統一委員会」のちに「全国統一会議」をつくり、徳田派の路線への批判を強めます。

三、しかし、『半世紀譜』通りに引用すると、五一年一〇月はじめ、「(宮本ら)全国統一会議の指導部は、声明『党の団結のために』を発表、その組織の最終的な解散を宣言」します。その直後に(同月ですが)、「徳田らが党規約に反する『第五回全国協議会』=一〇月一六日〜一七日=なるものを開き、五一年綱領を決定」するのです。

 

 ここからわかることは、現在の共産党の源流となった宮本氏は、暴力革命を主張していないし、武装闘争にも手を染めていないことです。党員を結集して独自組織をつくり、徳田派の武装闘争方針を批判もしています。だからこそ、五〇年台後半からの党の再生をリードできました。

 

 一方、武装闘争方針の五一年綱領を決めた五全協直前には、この独自組織は解散しています。当然、独自組織に参加していた党員は、宮本氏も含めてまだ不正常だった党に戻ったわけです。

 

 五全協は第六回大会で選出された党中央委員会(宮本氏もその一員)が主催したものではなく、中央委員だった宮本氏は参加していませんので、「党規約に反する」不正常さを引きずった会議ではありました。五一年綱領は、宮本氏らの参加しないこの会議で決まったものであり、事実の一面だけを見ると、「一方の側が決めた」とか、「党の正規の方針として『暴力革命の方針』をとったことは一度もありません」と言えないこともありません。

 

 しかし、事実のもう一つの面を見れば、五一年綱領が制定された時、宮本氏などは元の鞘に収まっていたのですから、党はすでに分裂していないのです。五全協は、第七回大会で宮本自身が報告したように、「ともかくも一本化された党の会議であった」ことは確かなのです。そこで採択された五一年綱領についても、「一方の側が決めた」とは言えても、当時すでに「他方の側」は解散して存在しておらず、「党が分裂した時期」の決定ではありません。

 

 また宮本氏は、『半世紀譜』を見る限り、自身が武装闘争に参加することはありませんでしたが、五全協に当たっても、またその後も、「統一会議」を率いていた時期とは異なり、武装闘争方針に反対することを明言していません。「党規約に反する」不正常さを引きずった会議の決定だったのですから、その決定である「五一年綱領」を堂々と批判するという選択肢もあったのに(実際に「統一会議」の時期には徳田派を批判していた)、そうしませんでした。党中央が編纂した『日本共産党五〇年問題資料集』も、掲載されている資料は五一年一〇月の五全協の決定が最後であり、それ以降、宮本氏が何を語ったのか、あるいは何も語らなかったのか、資料的なものは示されていません。宮本氏が党の方針について語るようになったのは、おそらく五四年一一月頃から各地の演説会に招かれるようになり、五五年初頭に党指導部から六全協の計画を聞かされた頃からでしょう。

 

 宮本氏は、「統一会議」を率いていた時期は、規約に違反したのは徳田派だという認識から、武装闘争路線も含めて堂々と批判していたのに、なぜそうしなかったのか。推測になりますが、それ以前の時期と異なり、「ともかくも一本化された党の会議」で決まったものなので、党の統一と団結を何よりも重視する立場から、表だった批判は控えたのだと思います。党の決定に反する見解を外部で公開しないのは、当時に考えられていた民主集中制の原則だったのでしょう。それが本当に党員として正しい態度だったのかは、いろいろな考え方があると思います。この時期に宮本氏が五一年綱領を批判していれば、現在、何の留保もなく「一方の側が決めた」と言えたからです。しかし宮本氏は、そういうことよりも党の団結を重視し、党の実践を通じて武装闘争路線への国民の批判が高まることを黙って見守った。その結果、武装闘争路線のような明白な誤りを党中央が犯しても、それを公然と批判しないで実践の結果をもって検証することが党規約であり民主集中制であるということになったのなら、私はそういう考え方は間違いだと思います。

 

 その評価は別にして、五全協から数年を経て武装闘争路線が国民から見離されるなかで、宮本氏は党の主導権を確保します。その際にも宮本氏は、党の統一と団結を何よりも重視する態度をとり、徳田派に所属し、武装闘争を闘った党員をも迎え入れました。指導部にも起用しました。

 

 こういう経緯があるのですから、共産党は、党員の一部によるものとはいえ、「ともかくも一本化された党の会議」で五一年綱領を決め、武装闘争に走ったことについて、党として認め、謝罪し、反省することを表明すべきでしょう。その上で、公安調査庁に対して、現在の共産党は過去も反省し、次に述べるように「敵の出方論」も放棄したのだから、破防法の調査対象団体とする根拠は何もないことを申し入れるべきでしょう。

 

 もちろん、公安調査庁のことですから、組織の生き残りのため、別の口実をつくりあげることなどは平気で行うかもしれません。しかし、自分で提示した口実が崩されても別の口実にしがみつく無惨な姿を国民の前にさらすことによって、国民世論の力で追い詰めていくのです。やりがいのある仕事ではありませんか。(続)