除名問題で毎日忙しいが、かといって遊んでいないわけではない。かつてなく旅行には行っているし、リモートワークで家にずっといるので、人生のなかでもっともテレビを観るようになった。といっても、通常放送は騒がしくて敬遠しがちで、ネットテレビとNHK中心だけれど。大河ドラマだって欠かさず視聴しているのは初めてではないか。
もう一か月ほど前の話題になるのだけれど、その時はバタバタしていて書けなかったことがある。家康が息子である松平信康と正室である築山(瀬名)の命を奪った事件。築山が、争いのない世の中をつくるため、まわりの国々と「ひとつの国」になる構想を持って推進し、それに息子の信康が同調することで事件が起きる。
大河ではそれを信長からの圧力と描くのだが、それは史実とは違うという専門家からの指摘が少なくなかった。これ以外にも、今回の大河に関しては、似たような議論が起きているようだ。
それに対して、「ドラマなのだから多めに見ろよ」とかは言わない。私自身はワクワクするものを見せてもらって楽しいし、史料の空白を脚本家が埋めるのはありだと考えるが、他方で歴史学者が史料にもとづきいろいろ発言するのも当然である。
ただ、今回のことでは、ちょっと違和感が残ったことがある。歴史評論家である香原斗志さんが、「NHK大河ドラマを信じてはいけない」と題して、プレジデントオンラインでこう書いていたことだ。
「続く第24話『築山へ集え!』(6月25日放送)では、母である築山殿(有村架純)の、奪い合うのではなく与え合うことで戦争をなくす、という荒唐無稽の構想に同調。『私はもうだれも殺したくはありませぬ。戦はやめましょう』『日本国がひとつの慈悲の国となるのです』と、(信康が)父である家康に力説した。」
築山の構想を「荒唐無稽」と断じているのだ。戦国時代に「戦争をなくす」とか「1つの国になる」考えを持つことを「荒唐無稽」と書いたのだろうか。そうではあるまい。だって、2年前の「麒麟がくる」だって、明智光秀が争いのない世にあらわれる「麒麟」を切望した物語だった。それに対して、「荒唐無稽」と断じた論評は、あまり記憶がない。今回も、家康をはじめ登場人物たちは、戦争をなくしたいがために1つの国をつくろうとして、戦争をしているように描かれているのである。壮大な矛盾ではあるが、登場人物たちはそう語っている。
ということは、評者がどれだけ自覚していたかどうか分からないが、女性が「戦のない世を」と考え、行動することに対して「荒唐無稽」と書いているとしか思えない。そこに大いに違和感を覚えたのである。
もちろん、戦国時代のいろいろな文献資料には、女性がそういうことを構想して行動したという記録は存在しないのだろう。当時の女性がおかれていた地位からすると、それが普通である。
しかし、当時の女性がそういうことを願わなかったのかといえば、「荒唐無稽」と断ずるほどのことはなかろう。男性が生まれた時から戦うことを義務づけられ、そういう思考にしばられる可能性もあったのに比べれば、男性よりも女性が戦争を止めてほしいと願っていた可能性さえあり得ると思う。さすがに領主を巻き込んでそういう行動に突きすすんだというのはフィクションの世界だろうが、女性の可能性に着目して表現することは、大いにあっていいのだと私は考えた。
いくら楽しくても、史実とかけ離れすぎていたら、さすがに「荒唐無稽」で観ていられないかもしれない。しかし、「どうする家康」はそうではない。現代の視点で過去を捉える物語として説得力があると考える。