私は志位氏との意見の違いが表面化して以降、約1年半後に退職した。自衛隊問題だけではなく、意見の違いが私の担当する分野にもっとたくさんあることを自覚し、これではいろんな意味で担当者としてやっていけないと思ったのだ。

 

 そこで再就職活動を開始したのだが、その関係で頼ったのは、当時、立命館大学の総長理事長室長だった鈴木元氏である。私が全学連で活動していた頃、京都大学の暴力一掃闘争のために二か月ほど泊まり込みで京都に行ったのだが、その頃は共産党京都府委員会で青年学生対策の責任者をしておられて顔を合わせることになる。学生運動の世界では、「東の田熊、西の鈴木」という言い伝えのようなものがあって、「これが、あの人か」と思ったものだ。

 

 実は、鈴木氏はかもがわ出版の取締役もしておられたのだが(現在もだ)、ちょうどその頃、かもがわ出版の側も編集長の後継者を探す必要が生まれ、顔の広い鈴木氏に託してかなり公然と探し始めていた。だから私は、休みの日に京都を訪ねたり、出張で上京した鈴木氏と東京の我が家の近くとか東京駅などで相談したりもしていたのである。

 

 もし第二事務が私を尾行していたなら、どんな意図をもってそんなことをしているのか、気づかないはずがない。そんな調べはすぐに付くから、志位氏などに報告したことだろう。

 

 しかし、私が退職の決意を党本部内の小池氏の部屋を訪ねて告げ、小池氏は私が部屋を退去したあと、すぐに志位氏に電話したそうだが、志位氏には寝耳に水のことだったようだ。だって、その場での志位氏の驚きよう、怒りようは半端でなかったそうだから。

 

 実際、退職を申し出た日が何曜日だったか忘れたが、翌月曜日の定例の常任幹部会を待たず、臨時の常任幹部会が招集され、私の退職問題だけを議題に審議がされた。私もそれなりに党歴があるが、常任幹部会が月曜の定例日以外に臨時で開かれるなど、その前もその後も聞いたことがない。

 

 ただのヒラ勤務員の退職のためにそんなことをするほど、関係者はうろたえたのである。私の申し出があまりにも予想外だったことのあらわれである。意見の違いで尾行することなど考えもしなかったのであろう。

 

 それが共産党第二事務をめぐる真実である。

 

 なお、退職を告げたとき、小池氏だけは頭の隅では想定していたようだった。申し出たその場で、私が就職活動らしいことをしていると知っていることを明かしてくれた。それは第二事務からの情報ではない。私が就職を相談していた別の人が、東京・新宿地区の幹部党員と飲んだ場で不用意にそれを漏らし、小池氏にご注進に及んだという経過だ。けれども小池氏は、それを志位氏などには告げていなかった。

 

 私と志位氏の意見の対立というけれど、私を説得する場に志位氏が出てきたことは一度もなく、議論の相手はいつも小池氏だった。その小池氏は、自衛隊問題をめぐる私の立場に共感をもち、「僕だって侵略されたら自衛隊を活用するって言いたいですよ。でも党首が違う解釈をしているのだから仕方ないじゃないですか」と言っておられたので、退職にいたる私の気持に同情してくれていたのかもしれない。

 

 なお、そうやって私の不穏(?)な動きを察知した党員が、それを中央に告げるようなことをもって、「やはり監視だ」「全党的な監視体制だ」という人もいるだろう。その点について言いたいこともあるので、連載はまだ終わらない(そんなには続かないけれど)。(続)