書くべきことが多くて、この連載を中断したままだった。その間に、中国共産党大会の習近平報告を手に入れたので、その論評の際にまとめてしまおうかと思ったが、「上」で終わるのも収まりが悪いので、少しだけ書いておきたい。

 

 それにしても、中国共産党の言うように、台湾問題が中国の国内問題だというなら、台湾に対して「武力の行使を放棄しない」ということは、根底からおかしいのである。だって、武力の行使というのは、国家と国家の関係に関する概念だからである。国内に独立を企むような反政府勢力がいたとして、それを鎮圧するのに「武力の行使」という概念を使うことはあり得ないのだ。

 

 国内に独立運動を抱える国はいくつもある。イギリスにとってのスコットランド、スペインにおけるカタロニアとバスク、カナダにとってのケベック。運動というほどではないが、日本でも沖縄独立論は存在する。

 

 この中には、住民投票でほとんど過半数に近づいたところもあるが、そうやって暴力を伴わない平和的な運動である限り、政府がそれを実力で押さえつけるようなことはしない。というか、できない。言論には言論でというのが、民主主義の基本である。

 

 もし、これらの運動が過激化し、暴力を伴うようなものになったらどうだろうか。その場合、ある程度の実力行使という選択が浮上することはあり得ると思う。

 

 けれども、その場合だって、「武力の行使」なんていう概念は使わないはずだ。だって、国内の治安維持のことだからだ。警察力を行使するのであって、軍隊に属する概念が用いられることはない。警察に手が終えないで軍隊が出てくる場合もあるだろうが、それも治安出動の一環として出てくるのであって、警察法の準じた活動をするのである。

 

 だから、せいぜい、武器の使用をどこまで認めるかという話だ。正当防衛の場合は使えるとか、正当防衛ではないが、相手が犯罪を犯したことが明白な上に逃亡を図った場合は使えるとか、そんな感じだろう。

 

 その種のものに「武力行使」という言葉を使うところに、中国共産党の特異性が如実にあらわれている。相手を怖がらせれば怖がらせるほど、震え上がって言う通りになるだろうという体質である。

 

 しかしそれは、中国共産党が何十年も支配していた地域では通用した常識であっても、共産党支配と関係なく人々が主権を行使して指導者を選んできた地域では通用しない。かくて、脅かせば脅かすほど、台湾の民心は中国から離れていくのである。(続)