支援者といっしょに写真に写ったからといって、政治家だから何万人と撮影しているのであって、覚えていないでも当然だというのが、山際さんの説明だった。そして、そんなことあり得ないだろう、なぜそこだけ記憶がなくなるのだというのが、野党による追及の基本だったわけだ。

 

 だけど、記憶がほんとうになかったのかもしれない。そして、記憶がなかったほうが、よけいに罪が重いのだと感じる。

 

 だって、相手は統一協会である。政治家ならずとも、かなりの問題を起こした団体であることは、誰だって知っている。もしかして、名前が変わって、体質も変わったのかと思わせるところがあったとしても、政治家ならば多少の警戒心をもってしかるべき相手である。

 

 自民党の政治家がみんな小さくなっているのも、少しはヤバいなあと感じるところがあって、それでも票のためには背に腹はかえられぬとか、運動員を確保するのは簡単なことではないとか、それなりのハードルを越えた感覚があったのだと感じる。だから、ばれてしまって、しまったという感じになっている。

 

 ところが、山際さんだけは、相手が誰か知らなくて当然だとして平然としている。そこが他の自民党の政治家と決定的に異なることで、辞任ドミノを期待する声もあるけれど、反省が見える人と(見えるだけで実際に反省しているかは知らないが)、全然見えない人という区分けをすると、山際さんは突出していたのだと思う。

 

 法を犯したわけではないから議員は辞めないと、これも平然としていた。けれども、こんな人が議員をしていると、政治家だから当然だとして、相手が誰であれ陳情を受けたり、その陳情を役所につないだりするのではないかな。

 

 堂々としたふりというか見栄えだけは安倍さんに似ていたけれど、遠く足許にも及ばなかった。批判をはねかえす胆力でも、跳ね返して攻めてくる論理を編み出す能力でもだ。

 

 安倍さん亡き後の保守政界は攻めどころ満点なんだけどね。野党はまたしても、足の引っ張り合いである。