沖縄問題を本格的に考えたのは、いまから22年前。2000年に沖縄でサミットが開かれることが決まり、基地問題への関心が強まることが予想されたので、共産党として世界に向けた訴えをつくることになった。そこで、政策委員会でこの分野を担当していた私が起案することになり、99年の夏頃から何回か沖縄に出向き、いろんな方に話を伺ったり、もちろん基地を視察したりして、訴えの案をつくっていった。

 

 最終的には「沖縄の米軍基地問題を世界に訴えます」というタイトルで、中央委員会と沖縄県委員会の連名で出されることになった(20年2月16日付)。世界への訴えなのだから、当然、英文もつくられた。総字数は1万2000字に及ぶもので、その英文も含め、現在も共産党のホームページに掲載されている。当時作成したチラシもアップされているけれど、不破さんが記者会見で発表したんだね。まあ、沖縄の基地問題を包括的に、簡潔に知る上では、いまでもいい教科書のようなものになっていると感じる。

 

 

 これはこれで歓迎されたのだと思う。本土でもそれなりの反響があったし、私が参議院の比例代表で沖縄を含む地域で候補者になった際、沖縄でも「あの訴えを作成した松竹さんです」と紹介されることが多かった。

 

 ただ、率直に言って、自分自身が「まだまだだ」と感じることも多かった。沖縄の人にとっては、あの沖縄戦の体験とか日頃の苦痛とか、沖縄で生まれたわけでもなく住んでいるわけでもない人が書いたことなど、響かない面がかなりあったと思う。本土の人にとっても、もちろん沖縄の声で心が揺さぶられるという要素はあるのだが、それがそのまま大多数の人の心をストレートつかまえるというと、そうではないという面があるのだ。

 

 先日の滋賀の講演会の事前打合せの際、主催者が言っておられたが、沖縄の人を呼んで訴えをしてもらう場合、その訴えが切実であればあるほど、聞いている本土の人は頭が下がっていくというのである。「申し訳ない」「自分には力がない」という感じになってしまうということだろうか。

 

 沖縄県知事のもとにつくられた米軍基地問題万国津梁会議で委員長を務めた柳澤協二さんも言っておられた。沖縄の方々から、「もっと自分たちのナマの声を理解してくれ、伝えてくれ」と求められるのだが、大事なのは、そのナマの声がどうやったら本土の人に伝わる言葉になるのか、そこが難しいのだと。

 

 それをどう発見するのかである。(続)