昨日、9条の会や新日本婦人の会の会員の方を前にして、「ウクライナ危機下での9条護憲の訴え方」と題して講演してきた。地域の会なのに、40名以上も集まって盛況でした。東京から聞きに来られた方も約1名。

 

 司会の方が言っておられたが、いま9条の署名を集める際、ロシアのウクライナの侵略を批判する宣伝をするそうだ。当然だよね。

 

 しかし、そこを通りかかる人は、「侵略されたら9条では守れないだろう」と声高に叫び、署名をしないで通り過ぎていくという。これも当然のことだけれど。

 

 だから、昨日の講演で重視したのは、いまのウクライナの事態を目の前で体験している日本国民にとって、9条を守るという立場をただ非武装だということに限定してしまうと、国民から遊離してしまうということだ。でも、いまのウクライナ国民のように、侵略に対して軍隊が抵抗するし、国民も抵抗するということは、9条を守るということと矛盾しないし、それどころか9条の思想からすれば、そういう抵抗に共感できるのだという立場に立つべきだ、そうすれば現在の局面は「困ったな」ということにならず、逆に「今こそ9条」ということになるのだと述べてきたのだ(この講演内容は、現在の複数の連載が終わったら、大連載します)。

 

 ところがだ。講演を終えて帰ってきたら、共産党の田村智子政策委員長の立場が変わったと言う。中身は私が紹介するまでもなく、日本中に広がってしまっている。

 

 9条をそういう見地で捉えるという考え方は、それなりに存在する。私が最初に衝撃を受けたのは、もう20年ほど前になるが、古関彰一さんがご自分の本のなかで、9条の思想からすれば、その9条を持つ日本国民が、ベトナム人民が武器をもってアメリカ帝国主義と戦うのを支援したのは間違いだった、と書いておられたことだ。

 

 まあ、学者が自分の学説を述べるのは当然だ。けれど、問題は、国民多数の支持を得て政権をとろうとしている政党が、それと同じ立場でいいのかということだ。

 

 この学説を日本が侵略された際に適用すると、国民が抵抗するのはまだ容認するとしても、その国民が防弾チョッキを装着するのも9条に違反するという論理になってしまう。これは特異な捉え方ではなく、国民の多くは9条とはそういうものだと捉えている。だからこそ、冒頭に書いた署名の場で、通りすがりの人が「9条では守れない」と批判するのである。

 

 田村さんが態度を変えたことは、その批判の正しさを証明したようなものである。そしてそれは、現場で必死に9条の署名を集めている人々に、さらに大きな困難をもたらすものでもある。現場の苦労を知らない人のやることだ。

 

 田村さんに態度の変更を迫れるのは志位さんしかいないわけだが、志位さんは「侵略されたら警察力と自主的自警組織で守る」という堅い信念を持っている。だから専守防衛とか自衛とかを共産党の基本政策にすることを頑なに拒んでいる。

 

 でも、警察だって防弾チョッキくらいは持っているんだけれどね。共産党が政権をとったら、警察から防弾チョッキを取り上げるんだろうか。こんなこと言ってて、野党共闘はどんどん遠のいていくと思うんだけれど。