トンガに自衛隊が派遣されることを昨日書いた。これは国際緊急援助隊法(1987年成立)にもとづくもので、PKOなどとは法律の枠組みが異なる。自然災害などが発生した際に日本から援助隊を派遣するための法律であり、もともとは医者や看護師などを派遣するための法律だったが、92年から自衛隊も参加できるように法改正がされた。同じ92年から自衛隊初のPKO派遣(カンボジア)があったので、自衛隊の海外活動をできるだけ広げていこうという意思の表れだったのだ。

 

 地震などに際しての派遣だから、国内の反対もないだろうし、派遣先の国の理解も得やすいはずであった。派遣先としては、自衛隊の輸送機C130Hの航続距離を考慮し、アジアを予定していた。

 

 ところが、政府はいくつかの国に派遣を打診したのだが、あまりいい返事が寄せられない。災害派遣が目的でで武力行使とは無縁といっても、やはり日本がかつて侵略した地域だから、言葉にできない嫌悪感があったのだろう。

 

 そこに浮上したのが中米のホンジュラス派遣だった。98年、大規模なハリケーンがホンジュラスを襲い、水害など大きな被害を生み出したのだ。

 

 中米なら、日本の侵略の記憶もないし、歓迎されたという実績をつくることができる。ということでホンジュラス政府に打診してOKの返事を得るのだが、問題は行き方だ。C130Hでは4000キロメートルも飛べないので、太平洋の各所に降りたって給油をする必要がある。結果、グアムからはじまり、ハワイなどを含め、米軍基地を経由しながらホンジュラスまで到達することになった。そんな経過で時間もかかり、活動できたのは10日間ほどだったかれど、医療や防疫などで貴重な成果を残したと思う。

 

 その頃、私は共産党の政策委員会でこの分野を担当していた。自衛隊の海外派遣であるし、最初の緊急援助隊としての派遣でもあるので、マスコミから広報部に対して共産党はどんな態度をとるかの問い合わせが来るので、当然、政策委員会はどう対応するのだと聞いてくる。

 

 それまで共産党は、自衛隊そのものに反対していたのだから、「この活動ならOK」というような対応はしていなかった。災害訓練だって「治安出動の訓練が目的だ」などの名目をたてて反対するのが通例である。雲仙普賢岳の大火砕流の際も、「自衛隊ではなく専門の部隊を送れ」と幹部が主張していた。

 

 私は94年から政策委員会に赴任したのだが、自衛隊の派遣に関して態度表明が求められたのは、ホンジュラスの事態が最初の経験だった。それまで自衛隊の海外派遣にはすべて反対してきたし、国内派遣だって賛成したことは一度もなかったのだから、態度を変えるのはそう簡単ではない。

 

 しかし、マスコミは翌日の朝刊に掲載するのだから、すぐに回答しなければならない。瞬間迷ったけれど、私の態度は明白だった。(続)