左側に属する論客のある原稿を読んでいて、そういう表現を見つけた。「中国は一つという原則は国際社会が認めているのだから、台湾は中国の一部である」というものである。

 

 「中国は一つ」あるいは「一つの中国」というのは、国際社会が公認しているところである。そこは誰も曲げられない。

 

 というか、改めて言うまでもないことだが、中国本土(中華人民峡湾国)も台湾(中華民国)も、戦後ずっと「中国は一つだ」と主張し、その「一つの中国」の代表は自分だと主張してきた。それを受けて、台湾こそ代表だとアメリカや日本などが公認し、ソ連やイギリスは中国本土が代表だと公認してきた。国連の代表権が台湾から中国本土に代わるにあたり、アメリカなどは「二つの中国」を模索したが、戦後の一貫した主張を曲げることはできず、「一つの中国」の原則が国際社会で定着することになる。

 

 しかし、だからといって、それは「台湾は中国の一部である」こととイコールにはならない。それは中国本土の政権が主張していることであって、少なくとも台湾側は同じ態度ではない。台湾側が認められないものを「原則」とまで言ってはならないだろう。

 

 しかも、「中国は一つ」という原則を曲げないにしても、それを実現する方式は台湾が中国の一部として飲み込まれるというものしかないわけではない。例えば、お互いの政治制度を変えないで、「連邦国家」をつくるという方式だって考えられる。

 

 通常、連邦国家というのは、もっと力が接近した場合に存在するもので、現在の中国本土と台湾のあいだでは現実味がないと思われがちだろう。私だってそう思う。

 

 けれども、あまりにも政治制度が違うこの二つで、本当に「一つの中国」を実現しようとすると、それ以外には考えられないのも現実だ。それ以外の方式の場合で無理に「一つの中国」をめざすと、台湾の人々の民意は踏みにじられることになる。

 

 もう一つの方式は、中国本土の人権状況が台湾並みに改善したとき、ようやく「一つの中国」になるというものだ。これは以前に書いたので、これ以上は述べない。

 

 「一つの中国」が原則だということで、台湾が中国に飲み込まれるのが原則だという考え方が生まれやすい。それを右側の人はいやがって台湾有事のための軍事的対応に走ってしまうし、左側の人はそれを批判するのだが、これも「一つの中国」の原則から台湾が飲み込まれるのを前提として考えてしまうからだ。台湾が飲み込まれても、「原則」である以上容認するしかなく、アメリカや日本が軍事的対応をすべきでないということになってしまう。

 

 「一つの中国」を実現する方式について、もっと自由な発想と豊かな議論があってもいいのではなかろうか。