私の大学の同窓会が月刊の会報(如水會々報)を出していて、時々ボヤッと見ることがある。そこでこの1年ほど、「渋沢栄一と企業」というテーマの連載が続いている。著者は渋沢史料館副館長も桑原功一さんで、11回目の今回は王子製紙の創業のいきさつが描かれていた。

 

 訪欧したときに新聞を見て、それを日本でもやろうとすると製糸業が必要だと考え、政府に出資を求めたが結論が出ないので、株式会社をつくって創業したということだった(これはテレビでも描かれていた)。しかし、何と言っても日本ではじめて紙をつくるというのだから技術的にも困難ばかりで、何度も倒産の危機にみまわれたらしい。いまの日本でわれわれが新聞を普通に購読できるのも、こんな経過があったんだね(その新聞も紙のかたちでは存続が難しいので、新たな事業が求められており、それにどう対応するかは大事な課題だ)。

 

 以前、このブログで、「青天を衝け」はせっかく資本主義の勃興期を描くのだから、それにふさわしいものになってほしいと書いたことがある。実際のテレビドラマはその期待に応えるものではなかったけれど、いろいろ考えさせることがあった。

 

 その最大のものは、渋沢のように、ものづくりの企業を興す人がいて、明治期に活躍したことは大事だったねということだ。その後の日本資本主義をそれなりのものに築く結果になったと思う。

 

 ヨーロッパでは、封建制下でものづくりの企業が勃興し、それが封建制の制約では成長できないということで、企業活動の自由をめざして資本主義の新しい体制ができてくるわけだ。労働者階級も生まれてくる。マルクスが編集長をつとめた「ライン新聞」も企業家が自由を求めて創刊したものである。こうやってヨーロッパは革命期を迎える。

 

 それに対して日本では、私が学生の頃に学んだことで言うと、江戸時代に商人資本が広がって影響を持っていったということだ。労働者は階級というところまでは成長しなかったが故に、明治維新は資本主義を生み出す革命のようなものにはならなかった。まあ、公式的な感じはするけれど、当たっていないわけではない。

 

 ただ、そういう違いはあっても、渋沢のように、ものづくりに邁進する人が出てきて、「日本資本主義の父」と言われるようになったのは意味のあることだったと思う。もともと渋沢がものをつくる農民だったことも大きかったかもしれない。

 

 ここ30年ほど、そのものづくりの精神が廃れている。日本の資本家は、ものづくりではなく株の取引や企業の吸収合併などに力をいれ、商人として生き残ろうとしている感じである。「渋沢に学べ」って、労働者の側から言わなければならないのかもしれない。