この問題をふまえて、その後、党本部においては、「政策上の大きな変更を選挙期間中におこなうと党内が混乱するので、大きな変更をする場合は選挙前におこなうこと」という基準が設けられた。やはり、党内に混乱をもたらすような大きな変更だったのである。しかし、混乱を最小化するために、「変更ではなく発展」と言い逃れたというわけである。

 

 私は、その後の日本共産党のソ連、中国批判は高く評価する立場である。ソ連について言えばアフガニスタン問題、それをきっかけにした核軍拡競争斧激化のなかで、するどく批判を展開したと思う。私自身も、全学連、民青同盟の国際部長を経験し、ソ連や東欧諸国を相手に闘った実感を持っている。中国のベトナム侵略や天安門事件への批判もそうだし、北朝鮮のラングーン事件や大韓航空機爆破事件での批判も鋭いものだった(20世紀中に限ってだが)。

 

 それにしても、やはりどこかに、社会主義国を批判することへの躊躇は残ってしまったと思う。あるいは、どんなに社会主義国が問題にせよ、いちばん批判すべきはアメリカ帝国主義であるという認識である。

 

 宮本会見で五か国すべての核実験を批判するにしても、核軍拡競争の「起動力」はアメリカであると述べていて、これは私も国際会議でよく使うことになった。ソ連の核問題での有害や役割を批判するのだが、「起動力はアメリカという認識は変えていない」と表明するわけである。

 

 しかし、この「起動力」というのも、よく考えれば何のことか分からない。核兵器をアメリカが最初に開発し、それを独占しようとしたという現実は否定できない。初期にまさに「起動」したということなら、事実としても間違いではない。

 

 けれども、実際には、現在進行形の問題でも、アメリカこそが「起動力」だという理論が残ったのではないか。いや、日本が主権国家として恥ずかしくない国になる上で、アメリカや日米安保条約が障害になっているというなら、何も問題はない。ところが、中国と台湾の関係という、日本の権力問題とは何の関係のない分野においても、「最大の敵はアメリカ」という理論で判断してしまっている。

 

 中ソの核問題への対応を通じて、現実の社会主義国への幻想がなくなったわけだし、それは乗上記したように大事なのだが、理論は間違っていないとして(「変更ではなく発展」)理論の正しさが一貫したため、その理論が果たしてどうなのかという探求がなくなってしまった。だから、ソ連が崩壊したあと「ソ連は社会主義ではなかった」としながら、21世紀になって中国を社会主義をめざす国と位置づけたり、その結果、中国の現実の振る舞いへの批判がにぶくなったりもした。

 

 ということで、あと5回ほど連載する予定。左翼、市民運動が中国をふさわしく批判しない問題と台湾問題の考察である。ただ、家族をめぐる個人的な問題が起きていて、連載は再来週になる可能性もある。(続)