1973年6月26日、東京都議選が告示された。ここでなぜ中国の核実験が問題になったかというと、まさに告示の翌日の27日、中国が核実験を行ったからである。

 

 それを受けて、7月3日、衆議院は「中国の核実験に抗議し、フランスの核実験に反対する決議」を採択した。共産党は、これまで見てきたように、アメリカの核兵器(核実験)は侵略のためのものだが、社会主義の核兵器(核実験)は防衛のためのものだという認識から抜け出ていなかったので、この決議に賛成しなかった。さすがにそれだけでは説得力がないと分かっていたからだろうが、アメリカがこの年すでに7回も地下核実験をしていることを不問に付し、直近の実験だけを問題することも重大な欠陥であると指摘した。

 

 しかし、その程度のことで世論の批判をかわすことはできなかった。公明党は巨大なビラを出したのだが、そこには「共産党、中国の核実験に賛成」という大見出しが付けられ、鮮やかな「きのこ雲」の写真が添えられていた。し選挙戦で共産党の勢いを止めるパンチ力を持ったものだった。

 

 中国が核実験を行ったあと、党内では、これまでの核問題での対応を変えなければならないとの認識が生まれていた。常任幹部会では、中ソの核兵器を単純に防衛的とみることはできなくなっているので、核保有五か国すべてに核兵器開発競争をやめ核兵器全面禁止協定を締結するよう呼びかける書簡を出すことが決定され、準備が進む。

 

 ただ、準備されている書簡では、五か国が核保有に至った経過はさまざまであることを根拠として、中ソに対して「貴国の核兵器はもはや防衛的なものでなくなった」という直截なものの言い方をしていない。宮本顕治委員長(当時)は、選挙への影響も考えて、もっと明確なものの言い方をしなければならないと思ったのだろう。7月5日、担当者に対して〝わが党の核兵器政策を変更する必要がある。本日中に記者会見をするから内容を準備せよ〟と指示を出し、常任幹部会での確認を経て会見を行った。会見では以下のように述べている。

 

 「しかし、この数年間重要な変化がおこった。社会主義国であるソ連と中国自体が互いに対立し合うようになった。今度の中国の核実験にかんするコミュニケでも『超大国の核独占を打破する』ためといっており、この『超大国』にはアメリカだけでなくソ連もふくまれている。中ソの国境では武力衝突もおこなわれた。またソ連のチェコスロバキア侵略という、われわれが非難した事態、残念ながら社会主義の大義に反した侵略行動がおこっている。このように中ソの国際政治における立場には変化が生じている。

 そういう段階で初期のように、中ソの行動がすべて無条件に防衛的なものだとか、よぎなくされたものだとは、簡単にはいえなくなってきている。……今日は、はっきりこれらすべての核保有国にたいし、核開発競争の悪循環からぬけでるべきであると率直に求める」

 

 これでようやく共産党への批判をかわすことができたのだろう。選挙では17議席から20議席に前進し、得票率も14.4%から20.21%となり、社会党(20議席、20.54%)と肩を並べることができたのである。

 

 現在に照らして考えると、台湾問題で中国の武力行使方針を批判しないという立場に立ってしまえば、実際に武力行使が行われた際、台湾の人々を殺戮する中国を批判せず、武力で中国に対抗しようとするアメリカ、それを助ける日本を批判するということになる。それが日本の平和運動にもたらす結末は、想像することすらできないほど惨憺たるものだと感じる。

 

 とはいえ、この宮本会見も、引き続きアメリカとソ連・中国を区別するという見地から抜け出せていなかった。それが「いかなる問題」に象徴的にあらわれていたのである。(続)