昨日、64年の日ソ両党会談後の日本側からの書簡を紹介した。一方、ソ連のほうも放射能被害だけで部分核停条約への態度を変えたというのでは説得力がないと思ったのか、日本側に書簡を寄こした。

 

 それは一言で言えば、「世界情勢が根本的に変った」ので核実験にも変化が生まれ、部分核停条約は平和の武器に変ったのだというものであった。ソ連は「世界で最大の威力をもつ核兵器」を保持し「帝国主義の世界全体をしばりあげ」ている、そのため「帝国主義は『力の政策』を実施する物質的地盤を失っ」ている。こういう状況のもとでは「地下核実験の方法で完成させられる各種の核兵器」(戦術核兵器のこと)はたいした意味はなく、「ソ連の優位をしめしている核兵器」(空中・水中実験で完成させた巨大戦略核兵器のこと)こそ意味があり、空中・水中実験を禁止した部分核停条約は世界平和を確実なものにする武器なのだというわけである。

 

 当時の日本共産党は、ここで書かれた“帝国主義は「力の政策」を実行する物資的地盤を失った”という問題を批判の対象にした。だって、アメリカは平和の敵で社会主義は平和勢力だという認識に立っていたのだから、アメリカがもはや「力の政策」を実行できないというテーゼは、とうてい受け入れられなかったからである。

 

 その是非はここでは論じない。しかし、このソ連側の書簡の問題は、もっと別のところにあったと思う。要するにソ連共産党は、自分たちの持っている核兵器がアメリカのものより強大だから、世界平和は保たれていると言っているのである。核兵器を廃絶して平和を取り戻すのではなく、ソ連が保有する核兵器が強大であればあるほど、アメリカが恐れ入って平和が保たれるというのである。これって、アメリカの抑止力論と何ら変わることにない思想であった。

 

 それにもかかわらず、日本共産党は、引き続きアメリカと社会主義の核兵器を区別する態度をとり続ける。先日書いたように、64年の中国の核実験に対しては、それ以上ないほどの賛美の言葉を述べることになる。

 

 その仕打ちが巨大な規模で襲いかかってきたのが、1973年の中国による核実験であった。私は大学に入学した年で、共産党員とは接触はあったが入党はしていなかった。ただ、東京都議選の真っ最中で、あまりの批判の世論の高まりを受けて、共産党が態度変更を迫られたことは、ニュースで知ることになる。しかし、その事情を理解したのは、94年に共産党の政策委員会に勤めるようになってからであった。

(続)