アメリカや日本は「平和の敵」であり、社会主義は平和勢力である。ソ連や中国はその社会主義の代表である。これが日本共産党の世界認識の戦後における出発点であった。

 

 その後、ソ連や中国の問題が次々とあかるみに出て、同じようなことが言えなくなったが、ソ連や中国を社会主義とみなすことと、それが資本主義とは異なる存在であるという認識は、変わらずに続くことになる。その結果、社会主義国をアメリカや日本と同列に批判しないという態度も、ずっと続いている。

 

 現在も同じだ。先月開かれた第3回中央委員会総会への志位委員長の報告では、「米国の対中国軍事戦略」とそれに追随する日本は強く批判されるが、中国は「包み込む」対象とされている。

 

 アメリカと日本を主な批判の対象にし、ソ連や中国を同列に批判しないという態度は、国民世論から乖離しているので、歴史的に大きなダメージを共産党に与えてきた。しかし、明らかにしなければならないのは、そのダメージを受けた当事者である共産党にとって、戦後何回も、ソ連や中国に対する認識を根本的に変える機会があったのに、結局は変わらなかったその理由だ。

 

 部分核停条約問題は、その初期の問題である。1964年8月26日、日本共産党はソ連共産党に次のような内容の手紙を送っている。

 

 「核実験問題は帝国主義の核戦争政策を促進するか防止するかという根本問題からみなければならず、放射能汚染の問題だけからみることはできないのです。だからこそわれわれは、あなたがた以上に、日本国民がもっている放射能汚染根絶という要求を身近に強く理解しているにもかかわらず、たとえ同じ放射能被害をもたらすとしても、帝国主義の核実験と社会主義の核実験の階級的意義の相違を重視し、一九六一年秋のソ連核実験再開にあったても、たんに放射能の被害だけを問題にすることなく、核戦争防止というより根本的な課題をたたかいとる立場からソ連の核実験にたいする抗議にも賛成しなかったのです」

 

 これは3月に開かれた日ソ両党会談の結果をふまえて送られた手紙である。なぜ放射能問題が出て来るかというと、この会談では、部分核停条約への態度を反対から賛成に変えたソ連共産党の対応を日本側(米原昶、西沢富夫)が批判したのに対して(この問題と「いかなる」問題をきっかけに原水禁運動が63年に分裂した)、ソ連側(ススーロフ、ポノマリョフ)が、“死の灰が飛んできてもいいのか”、“空気が放射能で汚染されてもいいのか”、“人間の健康と生命が危険にさらされてもいいのか”、“被爆国日本の共産党は国民から理解されないだろう”として、部分核停条約に反対する日本共産党を批判してきたからだ。

 

 その直前までソ連は、部分核停条約について、「(アメリカが)ソ連の両手をしばり」、「ソ連の足をさらおうといている」(フルシチョフ声明、61年9月9日)などと批判していたのだ。先ほどの手紙では、日本共産党は帝国主義と社会主義の核を区別する態度を貫いているのに、社会主義のソ連がもうそのような区別をしていないことを批判したのである。

 

 こうやって、当のソ連が帝国主義と社会主義の区別を相対化させたのに、日本共産党は両方を確固として区別する態度をとり続けた。たとえ国民世論から批判され、孤立してでもその態度を貫いた。(続)