もう半世紀が経ったこともあり、「いかなる」問題と部分核停問題は混同して捉えられることがある。しかし、これは別の問題であり、それが重なり合っている。

 

 1961年、広島で開かれた第7回原水爆禁止世界大会は、核保有3大国(米英ソ)が約2年間自発的に核実験を停止している状況のもとで、これ以後、「最初に実験を再開する政府は平和の敵、人道の敵として糾弾されるべきである」と明記した決議を全会一致で採択した。ソ連代表団を含めて賛成した。

 

 ところがその後一か月もたたないうちにソ連が核実験を再開した。「いかなる問題」はここから起きた。

 

 社会党はこの決議にもとづき「いかなる国の核実験にも反対」であるとして、ソ連に抗議するのは当然だと主張した。ところが共産党は「決議のこの一節は……明らかに正しくなかったといわなければならない」(1961年98日『アカハタ』、内野竹千代・統一戦線部長)として、ソ連の核実験を擁護した。

 

 だから、この問題をめぐって翌年の第8回世界大会は紛糾する。しかし統一は守られた。

 

 しかし、そこに1963年の「部分核停条約評価問題」が加わった。これが第2の問題である。社会党・総評は「いかなる」と「部分核停条約支持」の2つを同年の第9回世界大会で主張したが、多数を得られず大会から脱退、後に「原水禁」をつくったという経過である。

 

 この問題の経過や総括については、いろいろな書籍や報告もあるので、私が詳しく書く必要はないだろう。61年の「いかなる問題」は、昨日紹介した64年の岩間質問のように、社会主義と資本主義の核兵器、核実験を区別したというよりは、共産党が自分も賛成した決議をあとになって「正しくなかった」と評価を変えたことから生じた問題であった。いろいろな団体が一致点で運営している運動の決議に対してそんな扱いをするという問題であり、理論以前の問題であった。

 

 部分核停問題も、その時点での共産党の態度が正しかったか間違っていたか(運動の分裂に誰が責任を負うのか)という問題は、いろんな人が自分の立場を主張している。そこに私が口を差し挟むつもりはない。

 

 この連載で書きたいことは、この問題を通じて、ソ連がもはや「平和勢力」だとはみなせなくなったのに、なぜそれでも社会主義と資本主義の核を区別する態度をとり続けたのかだ。73年に中国の核実験をめぐって世論の批判が共産党に寄せられ、かなり大きな政策転換を行ったのに、なぜその後も、ソ連や中国を社会主義とみなしつづけ、資本主義と区別する対応をしたのかである。この問題は、21世紀になって中国を堂々と「社会主義をめざす国」と規定したことを含め、ずっと引きずっている問題である。(続)