さて、「一つの中国」である。これって、戦後、中国をめぐる国際政治上の対応を間違ったアメリカのレガシーと言えるのではなかろうか。

 

 昨日のドイツ、コリアの例を見れば分かるように、戦争をきっかけとして国が二つに分かれたとして、そのそれぞれに国家という実体があれば、それを国家として認めるのが常識である。そして、それぞれがいずれかの時に、国連にも加盟するのである。

 

 ところが中国の場合、アメリカは、そのような現実に即した対応ができなかった。政治の現実よりも反共の信条を優先させ、内戦に勝利した中華人民共和国を認めず、中華民国を中国全体の代表者とみなし、まだアメリカの投票機械と言われていた時代の国連に押し付けた。「中国は一つ」という虚構の上に外交を展開したのだ(蒋介石も同調した)。

 

 しかし、1960年を前後して独立した旧植民地諸国が大挙して国連に加盟するようになると、その虚構が通用しなくなる。これらの国々が、中華人民共和国こそが代表であるとの決議案を総会に提出するようになり、71年、それが可決されるのである。アメリカは、安保理常任理事国は中国が占めるのは容認しつつ、台湾にも国連代表権が維持されるよう画策するが(「二つの中国」である)、さまざまな事情が重なって台湾が国連から脱退するという決着がはかられる(台湾が「一つの中国」に固執したという話もある)。

 

 この結果として国際社会は、ドイツやコリアと異なり、中国問題に関してだけは「中国は一つ」という虚構を維持するしかなくなる。それが、過去の領土を奪われた中国人民の遺恨感情と合致して、「核心的利益」と表現される事項の一つになるわけだ。

 

 考えるべき問題は、こうして不変なものと思われた「中国は一つ」の原則だが、果たして誰をどの程度拘束するものなのかということである。アメリカや日本などが、当分の間、これを少なくとも建前として維持するしかないことは、きわめてはっきりしている。実際、トランプ政権のとき、ポンペオ国務長官が「中国は一つではない」という発言をしたことがあったが、その後のアメリカは、「中国は一つ」という建前を崩してはいない。

 

 しかし、これはあくまで建前というか、法的形式的にはということであって、トランプ政権の後期、台湾に売却する武器の総額が倍増したように、「中国は一つ」と言葉で言い続ければ実質は踏み込んでいいのだというものになっているのが、率直な現実である。

 

 さらに大きな問題は、当事者である台湾の人々は、「中国は一つ」という原則に縛られるのかどうかということだ。ここが難しい。(続)