さて、「一つの中国」である。中国が台湾が分離独立することを認めず、台湾を含めた領域を中国と呼び、それを代表する政府は一つしかないと主張し、アメリカや日本がその中国の主張を「理解」したり「尊重」したりしている。これが歴史的に根拠があって生まれてきた考えであり(その「理解」や「尊重」の解釈にはもともと幅があるが)、現在もそれなりの根拠を持っていることは確かである。

 

 ただし、そこに根拠があることを理解するためにも、分裂した国家の存在のありようというのは、歴史的にさまざまであることを知っておく必要があると思う。国家が分裂した場合、統一を成し遂げようとする民族的な感情が生まれるが、それも一様ではないということだ。

 

 例えばドイツ。西ドイツの憲法が基本法という名称を採用にしたのは、統一までの(「一つのドイツ」までの)暫定的なものだという気持を込めたものだと、よく言われる。ただし、東ドイツが「一つのドイツ」という考え方を拒否しており、現実政治においても東西のドイツがそれぞれ主権国家として国連に加盟し、国際社会と外交関係を結んでいた。しかし、解説するまでもなく、ドイツ民族が一つになるという流れを止めることはできなかったが、自由と人権を踏みにじっていた東ドイツが崩壊することによってドイツが統一されたことは、国家の統一というのは、自由や人権が劣る方向へのものであってはならない、そういう方向のものは人々の支持するものにはならないことを示していると感じる。

 

 さらに朝鮮半島。ここでは分裂の初期、「一つの朝鮮半島」がお互いの旗印であって、お互いが武力で統一する意図を隠さなかった。実際には北が侵略して統一しようとしたが大失敗し、その後も兵力を南進させて策動してきた。ただし、韓国の政治が安定期に入り、経済的に成長するにつれて、現状での南北ともの国連加盟で合意することになる。「二つの朝鮮半島」での合意である。連邦国家などをつくってやがて「一つの朝鮮半島」にしたいという表明はお互いがしているが、どこをどう考えても、自由や人権が劣る方向に合体するような統一はあり得ないだろう。

 

 中国と台湾の場合、ドイツや朝鮮半島とは簡単に比べられない。二つの国家が存在するという誰にも否定しがたい現実があるのに、その現実が通用しない現実があったことが問題を複雑にしてきた。(続)