昨日紹介したフランス案は、安保理が何かを決定できないとき、各国が集団的自衛権を発動出来るというもので、そういう時は無条件に発動できるものだった。それに対してアメリカは、個別的自衛権は侵略の際に発動でき、集団的自衛権は武力攻撃の際に発動できるとして、要件を定めたのである。

 

 個別的自衛権は侵略の際に発動できるというのは、この時点での国際法の通常の解釈であった。これを集団的自衛権にかで適用せず「武力攻撃」を要件としたのは、よりきびしい要件が必要だとアメリカが考えたからである。「侵略」はいかようにも解釈できるが、武力攻撃という用語を使えば、「侵略の明白な場合」に限られるというのが、アメリカの立場であった。

 

 イギリスは、これに対して主に「侵略」を問題にした。国連憲章でこの用語を使っても、定義できないのだから良くないというものだ。の議論が進むなかで、アメリカとイギリスの共同草案が提出される。それが現在の51条とほぼ同じもので、驚くべきことに、個別的自衛権も集団的自衛権も発動要件を「武力攻撃が発生した時」としていた。

 

 今では「侵略」と「武力攻撃」は同じものとみなされているが、当時は違ったので(自衛権はもっと簡単に発動出来るというのが国際法の常識だった)、これには反対も多かったようだ。アメリカ代表団内部からも、「個別的自衛の権利は、どのようにも切り詰められるべきではない」との強い声があがったそうである。

 

 当時の国際法常識からすると当然だろう。これに対して代表団長だったステティニアス国務長官も、「文書が最終的に合意されるまでに文言が多くの修正を受けるであろう」と述べ、その場の矛を収めるしかなかった。

 

 それなのに、この草案がほぼそのまま採択されるに至る。なぜそんなことになったのはすごい謎で、『自衛権の基層』でも解明されていない。

 

 いずれにせよ、アメリカはサンフランシスコ会議の時点で、集団的自衛権の導入が国連憲章の理念に反すると考えていたことは明らかだ。だから、集団的自衛権には当時の国際法の自衛権要件とは異なるきびしい要件を課すことにした。その厳しい要件が、いつの間にか個別的自衛権の要件となってしまった。これが経緯である。

 

 このアメリカの「努力」の方向性が、74年の国連総会の「侵略の定義」決議となり、国際刑事裁判所が裁く罪である「侵略」の定義となっていく。我々がいま、侵略とは武力攻撃のことだと堂々と言えるのは、サンフランシスコ会議でアメリカ代表団が努力したおかげなのである。

 

 そのアメリカを軍事同盟を世界に広げた張本人と位置づけるのは正しい。しかし、軍事同盟の生みの親とまでみなしてしまっては、国際政治をリアルに見ることにはならないだろう。(了)