昨日から出張で東京に出てきていますけれど、無茶苦茶な暑さですね。コロナも燃えさかっているし、普通の人なら仕事する意欲も失せそうです。私も、さすがに出張なので仕事を放棄するのはできませんが、ブログを書く意欲は低まりました。

 

 まあ、でも、一言。

 

 今年は2月に『〈全条項分析〉日米地位協定の真実』を出しましたが、あと2冊を刊行します。9月に自分のところから『13歳からの日米安保条約』です。サブタイトルは、「戦争と同盟の歴史の中で考えてみる」にするつもりです。次に10月、晶文社から『「異論の共存」戦略』が出ます。サブタイトルは、「分断を乗り越えようと、あがいてきた」の予定。

 

 後者はすでに初校ゲラができていて、校正を経たものが近く送られてくる予定。前者はそれよりも早く出るのですが、やっと3分の2ほどを書き上げました。

 

 いや、勉強になりますね。この歳になっても、新しい角度で物事を考えるって、大事なことだと感じます。

 

 『13歳からの日米安保条約』は、昨日、東京に向かう新幹線の中で、第3章の冒頭部分を書いたのですが、そこに私の新しい問題意識があります。以下のような書き出しです。さあ、どんな本になるでしょうか。

 

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 「存在するものは合理的である」

 

 ドイツの有名な哲学者、ヘーゲルの言葉です。その言葉の通り、目の前にある事象が存在しているのは、理に合っているからだということです。少し砕いて言うと、何らかの理由がある、根拠があるという意味です。

 

 この言葉は同時に、二つの相反する意味で解釈されてきました。固定的に解釈した人は、存在が合理的だということは、その存在はこれからも続くものだとして、現状を肯定する立場をとりました。他方、どんなものでも合理性を失えば存在が揺らいでくると考えた人は、現状も変わりうるものだという立場をとりました。

 

 日米安保条約が戦後ずっと存在してきたのも、本書で示してきたように、そこに合理的な根拠があるという一面があります。同時に、第二次大戦後の軍事同盟は、それ以前の同盟と異なり、一つには価値観・イデオロギーの対立の激化と、もう一つは終戦直前に開発された核兵器への依存という、大戦後に特有の安全保障環境が生みだしたものでした。そこに変化があれば、存在そのものが問われる問題となる可能性があります。

 

 そうはいっても、価値観での対立と核兵器依存という二つの問題は現在も継続しており、それだけで判断すると、安保条約の存在はなお合理的のように見えます。しかし、この二つを深く掘り下げてみると、第二次大戦後の八〇年近い歴史の中で特筆すべき変化がありました。どういう変化があったかを見てみましょう。