一昨日の五輪開会式。夜8時からは友だちがホストしたズーム飲み会に出ていて、終わりかけの10時過ぎ頃からぼやっと見ていた。私の関心は天皇の開会宣言にしかなかったのだけれど。

 

 まあ、こんな程度だろうね。短くて、あっという間に終わってしまった。「祝う」という言葉を使わなかったことが報道でも強調されている。参加したのも本人だけだった。

 

 何日か前のどこかの世論調査で、20代の若者が今回の五輪でもっとも心配しているのは「世論の分断」で、30%程度という数字が出ていた。そう、感染が広がることよりも、そっちの心配の方が強くなるほど、現在の分断の広がり、深まりはすごいんだと思う。

 

 私がもっと心配なのは、日本の政治勢力の中では、その分断を深める方向での動きだけがあって、どう分断を乗り越えて「国民統合」を成し遂げるかという動きが皆無だったことだ。いや、どの政治勢力も、自分の主張を国民多数のものにして分断を克服したいと思っているのかもしれないが、それって相手の主張には肯定すべきところ、歩み寄れるところが皆無と考えているということだから、どんどん分断は深まっていく。

 

 妥協のできない問題というのは存在しているとは思うのだ。たとえば1960年の日米安保条約の改定などはそういう種類の問題だっただろう。だけど、オリンピックって、そんな問題なのだろうか。

 

 それに、同じ反対を貫くにしても、2015年の新安保法制のように「最後まで体を張って反対する」というものもあれば、毎年の予算案のように「採決では反対を表明する」という程度にとどめるものもある。

 

 だけど、開催と中止という相容れない世論をとらえ、そこを統合しよう、乗り越えようとする勢力は、政治団体の中には現れなかった。そしてまたもや、天皇だけが、分断の中でどういう態度を取るかを迫られたという構図なのだろう。この分断の中ではあの程度のことしかできないだろうが、「どっちか寄りの態度は取らないよね」という安心感を持って見ていられた。

 

 憲法で「国民統合の象徴」として残された天皇って、この分断の世界で大事な存在だと感じる。だけど、それを天皇にまかせず、自分でやるぞという政治勢力が現れたら、それなりに支持を得られると思うのだけれど、違うのだろうか。