私が卒業した一橋大学の同窓会誌が時々送られてきて、最新号には敬愛する新学長である中野聡さんが、今年の入学式で挨拶した全文が載っていた。そこで学長は、ドラッカーがベストセラーである『断絶の時代』で、「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一について、次のように述べていることを紹介している。

 

 「岩崎は巨大で非常に収益力のある会社を残したが、渋沢の遺産は東京にある有名な一橋大学である」

 

 さらに中野学長は、ドラッカーが何を言いたかったかを、自分なりに次のようにまとめている。キーワードは「不連続な変化」の克服だろうか。

 

 「本書で著者ドラッカーは「不連続な変化」というチャレンジを過去に克服したモデルとして明治日本を論じています。そのなかで、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎と「日本資本主義の父」とも称される渋沢栄一に注目しました。岩崎は、資本家として成長分野に資本を集中させ、体系的に増殖させて巨大企業群を作ることに成功しました。一方、出資者として多数の企業・団体・学校を育成した渋沢栄一は、終始一貫して「人づくり」すなわち能力開発を通じた人的資源の拡充に尽くしました。明治維新後の日本が外国資本に頼らずに内発的発展・工業化を実現するためには、岩崎流の企業家精神による資本蓄積も必要だが、渋沢が尽力したように人間開発・人的資本形成がそこに伴わなければならない。そのような評価を、ドラッカーは、ここに紹介した言葉で表現しようとしたのです。」

 

 さて、別に一橋大学論を書きたいわけではない。毎回必ずというわけではないが、あまり集中しない状態で「青天を衝け」を観ている私が、なぜ集中できないのか、どうしたら集中できるようになるかを書いておきたいだけである。

 

 「青天を衝け」は日本資本主義の父が主人公であるにも関わらず、江戸時代の終わりを延々と描いている。明治維新につながる時代である。私は明治維新だからといって心が躍るようなことはないのだが、少なくない人にとってはそうではないようだ。

 

 その理由は「不連続な変化」だろう。江戸時代から明治へという「不連続な変化」は、もともとの状態にしがみつく人々(新撰組とか)を描いても、新しい状態への変化を主導する人々(坂本龍馬とか)を描いても、それだけでドラマチックである。何が正しいのが誤っているかを越えて、不連続さが心を打つ。

 

 しかし、「青天を衝け」にはそれがあまりない。普通は維新の志士を讃える言葉となる尊皇攘夷も、早くから意味のないものと描かれる。今後の展開は分からないが、明治への不連続な変化を主導する立役者は、古い側にいた徳川慶喜ということになるのだろう。そして前回、その慶喜の登場を待ちわびていたのが天皇だったと描かれた。

 

 つまり、「青天を衝け」では、江戸と明治が連続しているのである。これで世の中が大きく変わったという感動が生まれないのだ。だからこそ、あまり感情移入しないで、ボヤッと観られるのだけれど。

 

 それが問題だというのではない。逆である。(続)