『「異論の共存」戦略』という本を執筆中というか、全面再構成中だとお伝えしています。その中の第三章は「歴史認識でも左右の対話と合意が不可欠な理由」というのですが、その最後の部分を書き終わったので紹介しておきます。問題意識が伝わるでしょうか。

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 歴史認識について、日本会議の長谷川三千子氏から〝松竹さんとは七割は一致するが、残りの三割の違いは決定的〟と言われたことを紹介した。それを左派が耳にすると、「あんな歴史修正主義者と一致するところが七割もあるなど、松竹さんが不潔なことの証だ」と思ったのではなかろうか。逆に右派がそれを聞くと、「左派とそこまで一致点があるとは、長谷川氏は許せない」ということになったかもしれない。

 

 私自身、右派との対話を求めて歩んできた身として、一致点があるのが確かめたことは大切だと感じてきた。しかし一方で、だからどうなんだと言われると、積極的な意味付けをすることはできなかったのである。

 

 けれども、大館市が戦後ずっと中国人犠牲者の慰霊を続けてきた理由を知ったいまなら、確実に言えることがある。確かに、左派と右派の間には、絶対に乗り越えられない壁がある。どちらの側も、自分の主張を多数派にするために、それぞれが努力をすればいい。私も、例えば欧米や日本による植民地支配は違法なものだった考えているので、いまは多数のものにはなっていないが、やがて世界で普遍的な考え方にしていきたい。

 

 しかし、そういうバラバラな思想の人々が一つの共同体を形成している中で、そのお互いの違いは認め合いつつも、どこかで何か一致するものは必要なのではないか。それがないと、その共同体がかつて犯した間違いで亡くなった方々を慰霊することさえできない。革新市政時代には日本の戦争犯罪を糾弾して盛大な慰霊を行うが、その同じことを保守市政に求めようとすると、慰霊そのものがやられなくなる可能性がある。保革で一致する範囲で慰霊をすれば、政治の立場がどう変わろうと、慰霊はずっと続いていく。行政というものには、そんな役割もあるのではないだろうか。

 

 そして、その考え方は、歴史認識だけに限られるものではないかもしれない。憲法九条と防衛をめぐって私があがいてきたことも、じつは似たような問題だった可能性があるが、それはより広範囲に適用できるものかもしれない。これが現時点での私の結論である。