本日先ほど、再校ゲラが届いた。目次の扉と最終的な表紙はこんな感じ。これを1月6日までに集英社新書編集部に戻さなければならないというのだから、お正月はなくなるよね。でも、2月刊行は自分で選択したものだから、文句は言えない。1ページ分だけ増やせるというので、「あとがき」に以下のような文章を追加するつもりである。

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 日米地位協定は、これまで特徴づけたように、「占領延長型」である。同時に、「有事即応型」であるとともに「国民無視型」でもある。

 

 「有事即応型」であることと「国民無視型」であることは一体である。なぜなら、有事に即応できるようになろうとすれば、訓練その他は激しいものにならざるを得ず、平穏な暮らしを望む国民との間であつれきが深まるからだ。

 

 しかし、アメリカ軍は、米本土ではこれをなんとか両立させようとする。本文で書いてきたように、たとえ激しい低空飛行訓練を繰り返す場合でも、事前の飛行計画の提出と住民への徹底、鳥の巣ごもりの状況確認など環境に与える影響への配慮など、日本では考えられないことが義務づけられている。

 

 それなら同じことが日本の訓練でもできるはずではないか。日本政府はそれを求めるべきではないか。誰もがそう思うだろう。しかし、そうはならない。なぜなのだろうか。

 

 そこにあるのが、支配・従属の構造だ。同じアメリカ軍でも、本土では有権者である国民を無視できないが、従属国家の有権者は配慮の外である。日本政府の立場から見ると、有権者である国民よりも、支配者であるアメリカに気を遣うことになる。

 

 筆者は若い頃、ソ連や東欧の共産党指導下の青年組織を相手に仕事をしていた時期があり、たとえば核兵器の廃絶を共同声明などに盛り込む議論をしていた。その際、どの組織もなかなか首を縦に振ることはないが、それでもソ連だけは態度を変えることがあり、東欧は戸惑いを隠せなかった。そうなるのも決定権があるかないかの違いである。

 

 日米地位協定下の日本にはそのような決定権がない。そこから抜け出すのは容易ではないにしても、必ずやり遂げなければならないことなのである。