昨日、新宿にある徴用工の展示室を訪れて、本日はその記事を書くつもりだったのだけれど、あまりの脱力感に襲われているので、明日以降に。替わって、このブログではあまりやらない書評を。編著者である前川一郎先生(イギリス植民地史)から『教養としての歴史問題』を贈呈しいただいたので、そのお礼も兼ねて。

 

 この本は、内容以前に、問題意識がすばらしい。歴史認識をめぐっては、単純化することになるが、世論の世界ではいわゆる歴史修正主義(この定義づけは好きでないが)がはびこっているが、歴史学者・研究者はそれを相手にしないという構図がつくられてきたように思う。相手にするほどの学問的価値がないという感じだろうか。相手にする場合も、ファクトチェックに止まり、かみ合った議論になっていない。

 

 世間一般で歴史というのは歴史修正主義のことだとなっていても、歴史学者はそれで構わないと思っているのだろうかと、私は不安に思ってきた。私は『慰安婦問題をこれで終わらせる。』に始まり、『「日本会議」史観の乗り越え方』や『日韓が和解する日』を書きながら、専門家が参戦してこないことに忸怩たる思いをしてきたのである。

 

 『教養としての歴史問題』は、専門家が、ここに参戦しなければならないという明確な問題意識をもって書いた本である。『応仁の乱』で有名な呉座勇一先生もくわわり、さらには社会学者とか在野の研究者も加わるなど、世論状況に参戦するだけの顔ぶれである。

 

 日本では、左翼の一般的な見方は、日本は植民地問題を謝っていないが、欧米は謝っているという見方が強く、それが歴史修正主義から逆襲にあっている。「なぜ日本だけが謝らなければならないのだ」と批判され、それが世論を圧倒している。

 

 前川先生は、イギリスの植民地問題に詳しい。だから、イギリスが謝っているどころか、過去を誇りに思っている現状をリアルに描く。その過程で虐殺があったりしたら、そこだけは「選択的」に謝罪するが、根本のところではいいことをしたと思っている。だから、ネット右翼などが「なぜ日本だけが責められるのだ」と感じるのには根拠があることを認識している。だからこそ、その現状を克服するには何が必要かが見えているわけである。

 

 さらに、主に呉座先生が書いているが、百田尚樹の『日本国紀』に見られるように、歴史修正主義が「物語」を提示しているのに、専門の研究者がそれを提示できない現状がある。それが歴史修正主義の跋扈を許していて、専門家が何をすべきかは明らかだというものだ。

 

 どの指摘も「本当にそうだよな」と思う。この流れにもっと多くの専門家が加わることを期待する。