共産党を名乗る政党が権力に付くと独裁体制を築く。昨日書いたように、それは自分の理想を国民も共有していると勘違いして、それを押し付けることに躊躇しないからだ。現実の複雑さを理解できていない。ロシアからベネズエラまで、現実の社会主義の失敗はそれで説明できると思う。もちろん、もともと遅れた体制だったとか、発達していた弾圧機関を受け継いだとか、さまざまな要因が絡み合っているわけではあるが。

 

 そういう体質は、発達した資本主義国の共産党でも、似たようなところがあると感じる。ただ、発達した国では、国民の力が強くて権力の思う通りにできない要素があるから、ロシアや中国と同じようにはならないだろう。だけどそれは国民の力の発揚であって、共産思想そのものから出てくるものではないように思える。

 

 一方、共産体制の権力が、理想を脇に置いて現実を重視することになると、じゃあ理想はどうなるのだということになる。昨日も書いたが、レーニンが資本家や商人のもうけの自由を認めたことには、「もう社会主義ではなくなる」との批判が寄せられた。

 

 理想を邁進しようとすると独裁になる。現実と妥協すると理想を捨てることになる。その相克をどうするかなのだ。

 

 なぜ共産思想がそれほど矛盾に満ちた思想かというと、現実の捉え方にあると思う。資本主義を否定して共産主義をめざすのだから、資本主義というのは否定すべき体制なのである。それを否定してせっかく共産主義になるのだから、その資本主義の象徴である貨幣とか、商売とか、もちろん資本とかは唾棄すべきものと見てしまう。一方、中国のようにその現実を容認すると、経済的には資本主義にあり、政治体制だけは独裁(共産)ということになってしまう。

 

 これは体制問題だけではない。9条の理想と自衛隊という現実を見てもそうだ。9条を理想化しいてしまうと、その対極にある自衛隊というのは全否定すべきものになり、ただただ罵倒の対象になってしまう。専守防衛すら政策として確立できなくなる。

 

 しかし、もともとマルクスによる現実の捉え方は、そんな単純なものではなかったはずだ。資本主義は、少なくとも政治的な自由を生みだした先進的な体制であって、経済面で見ても、その資本主義のなかで社会主義に育つようなものが見えてきて、やがて社会主義が実現するわけだ。

 

 現実の中に肯定すべきものがある。そもそもそこに現実が存在するということは(安倍政権という現実も含めて)、それを成り立たせている根拠がある。そこへの敬意を持たないと、全否定の思想と行動が生まれ、権力をとると、理想の実現に権力をつかって邁進しようとしてしまう。

 

 まあ、うまく言えないんだけれど、そんなところかな。共産革命論は、私の人生の最後のテーマとして探求し、大著に残したい。