私は、ソ連にせよ中国にせよ、共産主義国家が最初のスタートから間違っていたとは思わない。資本の横暴で社会が歪み、国民の暮らしが成り立たなくなる中で、コミューン(=共同体==

支え合う社会)を望むことは普通であり、ソ連や中国にもそういう初心はあったのだろう。

 

 しかし、どこかで変質した。そのポイントはどこにあったのかということだ。

 結論から言うと、ポイントは理想と現実の相克にあるというのが私の考えだ。そこをどう捉え、どう臨むのか。

 

 今回のコロナ問題に即して見ると、感染を防ぐことと経済活動をすることと、それを両立させることが理想である。その理想を実現するための手段として、中国型のように、国民全員の徹底管理を考えることはあり得るだろう。日本共産党がそれを構想したとしても、それだけで独裁的だとか、共産主義からズレているとは思わない。

 

 けれども一方で国民の現実がある。国民はその理想通りには動かない。なぜ無症状なのに検査を受けないといけないのだと反発する若者もいる。ある筋から聞いた話だが、家族に感染させたくないという気持からホテル住まいで職場に通っていた人が、熱が出たので検査を受けたら陽性だった。だからホテルで感染を広げた可能性はあるのだが、それを保健所には言わなかったということだ。

 

 政府の分科会の尾身さんも言っていたけど、熱が出た人や濃厚接触者は積極的に検査するが、無症状の人は難しいと悩んでいた。それが現実である。

 

 ところが、国家権力を持っていると、自分の理想を押し付けることが可能である。感染を防ぐことも経済活動をすることも国民が望んでいることだから、多少の無理をしても押しつけではなく、理想の実現である。国民も心の底ではそれを望んでいるはずだ、そこに踏み込むと、共産主義から独裁に転落していく。

 

 ロシア革命を成功させたレーニンの言動を見ると(同『全集』は3回ほど熟読した)、革命の熱狂の中で、理想の実現に邁進する。その中には、8時間労働制や抑圧民族の解放なども含まれるが、同時に、貨幣の廃止とか物々交換なども性急に進められる。共産主義の理想(原理)からすると市場は悪であり、価値よりも高くものを売って儲けるのは共産主義的な人間ではないのだ。

 

 レーニンの場合、短期間でそこに気づき、転換を試みる。そこには、人間は悪徳なものであることへのリアルな理解がある。そのまま進めば社会主義ではなくなるとの批判もあったし、実際にどうなったかは分からないけれど。

 

 ということで、連載はあと1回続ける。もう上中下は終わったので、明日は「続」かな。