一方の韓国の徴用工は日本で差別されたと主張する。差別がなかったとする展示内容を間違いだと批判する。

 

 他方の日本の坑夫は、賃金差別はなかったし、それどころか朝鮮人とも仲良くやっていたと主張する。差別されていたとする徴用工の主張を批判する。

 

 これは、どう見ても真逆の立場である。どちらかがウソの証言をしていることになり、お互いが相手がウソをついていると主張するのが現在の構図である。

 

 しかし、私に言わせれば、どちらも正しい。そこにこの問題の奥深い真実があると思う。

 

 『日韓が和解する日』にも書いたことだが、炭鉱労働というのは厳しい。もともと囚人にやらせていた仕事であって、だんだん改善されてくるのだが、戦時下(すなわち徴用工がやってくる時代)では、再び手作業が中心になってきて、厳しい労働条件がのしかかる。しかも、落盤事故が絶えないので、いつ命がなくなるかもしれない。

 

 そういう状況下で、同じ現場に日本人と朝鮮人がいたとして、反目なんかしていられないといういのが現実だろう。気持をあわせて仕事しないと、命が失われるのだから。

 

 そこに抑圧されているもの同士の連帯感が生まれる。昨日引用した井上さんの話を読んでみると、そういうことを感じる。だから、差別されていたという元徴用工の話を目にすると、「なにを言っているのだ」と怒りも湧いてくるのだ。

 

 徴用工も、実際に仕事をしていた当時、同じ連帯感があったと思う。被抑圧者の連帯感である。これって、慰安婦問題でも、日本人の兵士と韓国の慰安婦が心を通い合わせる場面があったことを、朴裕河さんが書いている。

 

 けれど、支配していた日本人と、支配されていた韓国人が心を通わせていたというっことは、現在の韓国では通用しない。だから、そういう事実は全否定することになる。

 

 これって、事実を直視しない歪みという面がある。しかし、それに止まらないことに複雑さがあると思うのだ。

 

 だって、戦争が終わってみたら、自分たちは支配されていた民族だという自覚が生まれる。1960年に国連総会で植民地独立宣言が採択されるなど、植民地支配は違法だという認識がどんどん広がってくる。

 

 現在のそのような到達で、戦時中のことを振り返るわけだ。そうすると、日本人坑夫はある種の懐かしさで思い出せても、徴用工には同じわけにはいかない。そもそも、日本人だってできれば就きたくない仕事をずっとやらされていた。賃金の差別はなかったけれども、精神面その他の差別は色濃くあったのは事実だ。

 

 こうして、同じ体験が、日本人には連帯感として残り、朝鮮人には疎外感として残る。そこをふまえないと、この問題の真実にたどり着くことはできない。(続)