今回の本で、いわゆる70年代初頭の新日和見主義問題とは何だったか初めて納得できたと、初回に書いた。まあ、新日和見主義といっても、ほとんどの読者には何のことか分からないだろうし、分かったところで役に立つ問題ではないので、スルーしていただいて結構である。

 

 私だって、学生運動にかかわりはじめた74年頃、この言葉は知っていたが、すでに終了した問題だったので、ほとんど関心を持つことはなかった。というか、否定的で近づいてはならないもの、そんな感じだったかな。

 

 最近になって、この当事者だった川上徹氏(故人・同時代社社長)の回顧録などが出て、おぼろげながら真相が明らかになりつつあるわけだ。平田さんは、川上氏の一つあとの全学連委員長だったということもあり、問題が起きた時に近くにはいたが、同時に政治的には距離を置いていたということもあって、客観的な観察が可能になったように思う。

 

 要するに、共産党にいて学生運動の責任者だった広谷俊二氏が、当時共産党が決めた人民的議会主義の方針に対して大衆運動軽視ではないかという不満をつのらせ、川上氏をはじめ学生運動人脈を利用して、当時、川上氏が属していた民青同盟のなかで影響力を強めようとした。そういう動向を懸念した共産党は広谷氏を学生担当から外し、その民青同盟への影響力を削ぐために、民青同盟員としての卒業年齢を若くしようとして、規約の改正案を準備した。一方、民青同盟の幹部の中では、共産党への多少の不満はあっても、路線がおかしいとか、そんなことを考える人はほとんどおらず、ましてや分派をつくるなど考えてもいなくて、一途に共産党の前進を願っていたが、それとは関係なく、そんなに若い年齢で卒業させられることに対する不満は強く、民青同盟の全国会議で規約改正案が否決される。

 

 びっくりしたのが宮本顕治氏だ。共産党が推し進めた規約改正案を民青同盟が拒否したのである。その背後には、共産党と敵対する大きな政治的動きがあるのだと疑い、民青同盟の中央から地方まで徹底した査察を行い(何日間も隔離して)、その洞察力で想定したシナリオにもとづいて自己批判を強要し、大規模に処分をしていった。これが平田さんの推察である。

 

 共産党に反旗を翻すなんて心の隅にもなかった人たちが、こうやって共産党の敵対者であると公表され、外に追いだされた。共産党員だということがバレバレなので、雇ってくれる会社もなく、苦労を強いられることになる。大学紛争を献身的に闘って成長した幹部がごっそりと処分されたのだから、その後の共産党にとっても大きな損失となってしまう。

 

 私も、昨日書いたように、宮本顕治氏のあまりの洞察力のすごさと、その洞察力が現実から乖離したときの恐ろしさを体験した一人なので、平田さんの推察には納得がいく。明日で終わります。(続)