ただしかし、二度目のロシア革命は、同じことの繰り返しであってはならない。新しく出来る「体制」は、これまで理解されてきた共産主義体制とは、2つの点で異なるものであるべきだろう。

 

 1つは、すでに述べたことだが、それが共産主義体制かどうかを判断する基準は、国民の自由権と社会権がともに高い水準で実現しているかどうかである。その実現を目標に据えるべきである。

 

 ここには二種類の含意がある。まず、自由権さえ不十分な国を共産主義とみなすなど、かつての愚は二度と犯してはならないということだ。同時に、社会権の実現のために必要だからといって、生産手段の社会化を社会主義の目標として位置づけることはしないということだ。

 

 これまで、共産主義運動の中では、生産手段(工場など)が資本家や大株主などにより私的に所有されていることが、社会の利益よりも私的な利益が優先される原因になっているとして、それを社会のものにすることが目標とされてきた。ロシア革命後に実施された国有化が破綻したことをふまえ、働く労働者の共有にするなどいろいろな模索があったが、社会化の進展具合を共産主義実現の進展具合に重ねる見方は変わらなかった。しかし、この問題で一番大事なことは、国民の社会権が高い水準で実現することである。生産手段の社会化は必要なことではあるかもしれないが、それは「手段」に過ぎない。手段に熱中して目標を脇に置いてしまっては、生産手段が社会化されても国民の権利は保障されなかった共産主義体制の誤りを繰り返すことになる。中国企業で世界にもっとも影響力のあるファーウェイが形式的には民間企業であることを見ても、社会的所有か私的所有かで社会への影響が違うとする議論のむなしさを感じる。自由権と社会権が相対的に高いけれども生産手段の社会的所有はされていない社会と、自由権と社会権が相対的に低いけれども生産手段の社会的所有はされている社会と、どちらが望むべき社会かは明らかではないか。

 

 もう1つは、その新しい体制をあらわす言葉だ。わたしはそれを、「共産主義体制」ではなく、「コミューン」と呼びたい。

 

 共産主義(コミュニズム)の語源はコミューンである。英語のコモン (common)にあたるが、もともとはフランス語で、「共通」「共同」「共有」などを意味する。そこから転じて、中世ヨーロッパでは、領主から住民による自治を許された都市を指していた。

 

 つまり、共産主義を生み出したヨーロッパの人々が共産主義という言葉からイメージするものは、日本人がイメージするものとは根本的に異なっているのだ。現在の世界でコミュニズムという言葉を聞く欧米の人々は、資本の横暴に対して自治を許された住民が共同して立ち向かい、社会を支え合うことをイメージするのではないか。そうでなければ、あのアメリカにおける若者を対象にした世論調査で、「社会主義に好意的」と答えた人が51%にのぼり、「資本主義に好意的」の45%を上回った事実を説明できない。アメリカのコロンビア大学が、アメリカ、カナダ、イギリスなどの大学のシラバスをチェックし、使われているテキストを自然科学も人文科学も社会科学もあわせて調べたところ、93万件中の第3位がマルクスの『共産党宣言』で、『資本論』も44位に入ったそうである。

 

 日本人の多くは、共産主義と聞いて、「財産の共有」を思い浮かべる。日本のコミュニストにしても、多くも「生産手段の共有」をあらわす言葉だと信じている。そして、生産手段の社会化の形態や度合いの議論に集中してしまう。しかし、この言葉を生み出した欧米の人々は、いまの資本主義では解決できない自治、共同、共存などが実現する社会を思い浮かべる。

 

 これはもう、言葉の問題ではない。求められる体制をどういうものとして構想するのかという問題だ。

 

 だから、新しい社会はコミューンであり、それを実現する革命はコミューン革命である。外来語を使わないで中身を表現するとすれば、新しい社会は「共同社会」とも呼べる。ただ、コミューンの経験のない日本人には「共同社会」と言ってもイメージできないだろうから、それを「支え合う社会」と呼んでもいい。まさに、人が支え合うコミューン=共同体を実現することだ。

 

 この社会にどんなに貧困と格差が広がっても「我、関せず」という富裕層や大資本に対しては、「社会を支える側に立て」と迫っていく国家権力が不可欠だ。どんなに温暖化が進んでも「石炭火力は必要です」という企業に対しては、「目先の利益だけでなく、人類の未来のことも考えよ。地球を支え合う思想を持て」と強制する権力が必要なのだ。

 

 それが「支え合う社会」である。ノスタルジーとしてではなく、現実に不可欠なものなのである。わたしが共産党の政策委員会に在籍していて頃、選挙などで問い合わせしてくる共産党の支部長なども、「共産主義は怖い体制だ」と述べるほどであり、「共産主義体制」なるものは、いまや日本のコミュニストでも実現を希望していない。しかし、めざすのが「支え合う社会」なら、アメリカで社会主義を望む人ほどは日本にも支持者が出て来るのではないだろうか。(了)