それでもなお、わたしはコミュニストであり続けた。なぜなのか。それは何よりも、日本のコミュニストの代表格である共産党が、ソ連の独裁体制や覇権主義と公然と闘っていたからだ。

 

 1948年の世界人権宣言以来の努力によって、組織的で広範囲な人権侵害は「国際問題」とされ、外部からの批判は内政干渉にあたらないという慣行がつくられてきた。ソルジェニーツィン一人だけの人権侵害のような場合は国際問題とはみなされないわけだが、日本の共産党は、そうした国際慣行にもかかわらず、「ソルジェニーツィンへの迫害は国際問題だ」としてソ連共産党をきびしく批判してきた。アフガニスタンへの軍事介入や核軍拡路線にも公然と異を唱えてきた。人権侵害も覇権主義も「社会主義の原則に反する」という立場からだ。当時、わたしも民青同盟の代表として国際会議などに参加し、ソ連批判を展開することがあったが、相手からどんな反撃があっても屈服してはならないとの日本共産党の指導を忠実に守り抜いたものである。

 

 ソ連が崩壊したとき、日本共産党が直ちに「もろてを挙げて歓迎する」という談話を出せたのは、そういう過去の実績があったからだ。「ソ連は社会主義ではなかった」という大胆な認定も行った。当時わたしは金子満広書記局長(故人)の秘書をやっていたが、後援会の旅行で祝杯をあげ、「ソ連崩壊で万歳をしている共産党は世界の中で日本共産党だけだろう」という金子さんの挨拶を聞いたことを鮮明に覚えている。

 

 ソ連崩壊の直前、少しずつ存在感を増してきた中国で、1989年、あの天安門事件が起きた。これについても日本共産党はきびしく批判し、中国共産党のことを「鉄砲政権党」などと揶揄したりもした。ちょうど東京都議会議員選挙が闘われている最中であり、わたしは八王子選挙区に派遣されていたが、「どのように中国を批判すれば効果的か」ということを夜を徹して仲間と語り合い、宣伝チラシをつくったものである。何か月かして、欧米がまだ経済制裁を続行している中で日本政府がいち早くそこから脱落したが、その弱腰をきびしく追及したのも日本共産党であった。

 

 その当時、60年代に起こった中国共産党の日本共産党への内部干渉の影響で、両党の関係は断切していた。その後、両党関係が正常化したことで、もう中国を批判することはできないだろうという観測も流れた。しかし日本共産党は、関係が回復したからといって重大な人権侵害を許すわけにはいかないとして、天安門事件の10周年(1999年)に際しても批判論文を出すほどであった。

 

 日本で共産主義の「体制」が出来るときは、既存の社会主義国とは別のものになる。日本共産党の批判の鋭さは、そう思わせるに十分であった。

 

 けれども、詳細は書かないが、21世紀になるのを前後して、共産党は中国の人権問題への批判をしなくなる。天安門事件20周年(2009年)では、10年前とは異なり、「しんぶん赤旗」に一行の批判も論評も掲載されなかった。ソ連のことは「社会主義でなかった」と言い続けながら、中国については「社会主義をめざす国」と肯定的に認定し、積極的に交流を進める。2006年に成立した北朝鮮人権法に対しては、北朝鮮の人権問題は国内問題だとして反対することになる。この問題での意思決定過程からわたしは組織的に排除された。ソルジェニーツィン一人だけへの人権侵害を「国際問題」として批判していた当時とは様変わりであった。こうしてその直後、根本的な理由は別にあるのだが、共産党の政策委員会に勤務していたわたしは、小池政策委員長に退職を申し出、受理されることになった。

 

 それでもなお、わたしはコミュニストであり続けている。それはなぜなのか(なお、共産党の名誉のために言えば、天安門事件30周年の昨年、「しんぶん赤旗」はそれを振り返って批判する「主張」(新聞の「社説」にあたる)を10周年以来20年ぶりに掲載したし、中国を「社会主義をめざす国」とする綱領の規定を削除する改定案を、今年1月の党大会で採択した)。

 

 そこにあるのが、今回の特集の共通テーマである共産主義「体制」へのノスタルジーと言えるだろうか。ノスタルジーという言葉の響きがもつ「懐かしさ」とは無縁で、日本語で表現すると「渇望」が近いけれども、共産主義体制が切実に必要性とされていることへの思いである。(続)