なぜ政府は「ほとんど裁ける」としか言えないのか。そこを考えると、かなり深刻な問題が浮かび上がるように思える。

 

 昨日の記事で、国際人道法の規定と日本の刑法の規定とでは、少し概念が異なるのではないかと書いた。ここからは推測も入るのだが、例えば「ジェノサイド」というのは、日本の刑法にはなじんでいないような気がする。

 

 日本も批准している国際刑事裁判所(ICC)規程では、ジェノサイド(集団殺害犯罪)は以下のように定義されている。これはジェノサイド条約の定義とほぼ同じである。

 

 「「集団殺害犯罪」とは、国民的、民族的、人種的又は宗教的集団の全部又は一部に対し、その集団自体を破壊する意図をもって行う次のいずれかの行為」

 「a 当該集団の構成員を殺害すること」「b 当該集団の構成員の身体又は精神に重大な害を与えること」(以下、略)

 

 日本の刑法では、ここにある具体的な行為は裁けると思う。「a 当該集団の構成員を殺害すること」などである。日本でも大量殺人という概念はあり、一人を殺害するのと、100人を殺害するのでは、刑の重さに違いがあるだろう。おそらく日本政府は、ジェノサイドにも大量殺人にふさわしい刑罰を与えれば、条約の規定を満たしたと考えたのではないだろうか。

 

 しかし、ジェノサイドで意味を持つのは、「集団を殺害する」ということだけではない。その前の文章にある「その集団自体を破壊する意図をもって」いるかどうかも大事なのである。実際に殺害された数が多いか少ないかは刑期を決める上で大きな問題ではあるが、「ある民族集団を破壊するという意図」があったかどうかも、大事な要素になってくるのである。同じく100人を殺害したとしても、その100人が所属する民族全体を破壊する意図を持っていれば、ただの大量殺人ではなくジェノサイドになるということだ。

 

 「ある民族集団を破壊する意図」があるかどうかなどということは、おそらく日本の刑法の概念には存在しない考え方である。ICC規程を批准する際、本来であれば、そういう国際法の到達を真剣に受け止め、刑法概念を変革するような努力が必要だったのだ。ところが日本政府は、戦前から続く刑法体系に大きな変更を加えたくないものだから、そのための努力を放棄した。そして、国際人道法の精神との乖離があることを自覚し、「ほとんど裁ける」と逃げ道を残したのではなかろうか。量の問題としては裁けても、質がついていかないということだ。

 

 だから、「その国際人道法違反は、刑法のここの条項で裁ける」というやり方をしていてはダメなのだ。国際人道法の到達を正面から受け止め、新しい包括的な法体系を提起することで国民の中で議論を起こしてこそ、この精神にあった日本ができてくるのである。特定の民族集団への蔑視を煽る風潮のある日本だからこそ、そういうやり方をしなければならない。