昨夜、映画「オーケストラ」(原題はCONCERT)を観た。2009年公開のフランス映画だ。こんなものがアマゾンプライムビデオで見放題になる世の中って、素晴らしい。アマゾンの寡占化を助ける行為かもしれないけれど。でも、Netflixも愛聴してるからね。
この映画の背景は社会主義ソ連の独裁である。30年前、ある天才指揮者が、政府のユダヤ人排斥政策に従わず、友人がシベリアの収容所に送られるに際し赤ちゃんを逃がす援助をして職を奪われ、いまでは劇場の清掃夫として身を立てている。それがある出来事をきっかけにして、追放されていた他の楽団員とともにパリに出向き、若手の女性バイオリニストをソロとして指名し、30年ぶりにチャイコフスキーのバイオリン協奏曲を指揮することになるのだが、という設定。
まあ、純粋に楽しめる。抑圧され、悲哀と苦労を味わった人々が再起し、喜びに包まれるという物語だから。しかも、若手バイオリニストの陰影に満ちた人生が投影され、別の物語も体験することができる。
一方、わたしのようなコミュニストが観ると、別の面白さも見えてくる。70年代末のソ連が出発点だけれど、その頃、サハロフ博士のシベリア抑留なども話題になっていたから、ついついリアルにのめり込んでしまう。しかも、その「モスクワの長女」と呼ばれていたフランス共産党の巨大な本部ビルが映り(あれって、いまは誰が所有しているのであろうか)、国民の支持を失った共産党が共産主義の理念を守ろうとして、空虚な議論を重ねている場面が出てくる。
けれども、ただ共産主義を揶揄しているわけではない。主人公がこう言うのだ(ちょっと正確さに欠けるかもしれないが)。
「コミュニズムはフランス共産党の中にはないけれど、コンサートの中には存在しているのだ」と。
コミュニズムを協力し合う思想、支え合う思想だと捉えれば、それはもう共産党の中には存在していない。しかし、そういう思想は誰もが望んでいるものであるが故に、身の回りに厳然として存在しているということだ。その視点を変えて捉えれば、コミュニズムは生き続けるということでもある。
深い映画を観たなあ。次はどれにしようか。