さて、前回書いたように、マルクスは、「労働の権利は、ブルジョア的な意味では一つの背理であり、みじめな、かなわぬ願いである」(『全集』第7巻39ページ)とまで述べて、憲法に「労働の権利」を入れることをあきらめた。そして、ブルジョア社会そのものを打倒することに力を入れるのである。

 

 しかし、これって、現在を生きる我々には違和感がないだろうか。だって、労働の権利はすでに各国憲法に取り入れられている。だけど、我々が生きているのは、ブルジョア社会そのものだ。

 

 そう、マルクスの時代は、1793年のジャコバン憲法にせよ、1848年のフランス憲法にせよ、社会権を憲法に取り入れようとする動きはあり、憲法草案はつくられたが、それを推進した人は弾圧され、憲法としては実を結ばなかった。この時代に憲法で規定されたのは、いわゆる自由権に限られたのだ。

 

 しかし、第一次大戦後のドイツのワイマール憲法で、本格的に社会権が取り入れられた。それはヒトラーの登場で止むことはなく、戦後の各国の憲法では常識になっていくのだ。国際的にも、国連が自由権規約と社会権規約にわけて国際人権規約をつくり、二種類の権利があることが普遍化していく。

 

 もちろん、憲法に書き込んだと言っても、その中身が十分に実現しているわけではない。だから、日本をはじめ各国では、憲法でうたわれた水準に現実を合わせろという運動をするようになっているのだ。マルクスの時代では考えられなかった社会運動の方向性が生まれたわけだ。

 

 そして、よく考えてみると、日本の憲法というのは、世界と比べても自由権、社会権ともにもっとも先進的だと言われている。ということは、日本が社会主義になったとして(リアルでない話で申し訳ありませんが)、憲法の人権規定はどうすればいいのだろうか。

 

 社会主義になっても国家権力はあるわけだから、権力からの人権侵害を防ぐため、人権規定は不可欠である。その人権規定は、現行の日本国憲法の水準のものではないのだろうか。

 

 ということは、マルクスが現代の世界で憲法を書くとしたら、おそらく人権部分は日本国憲法と似たようなものになるのではなかろうか。どうでしょうね。(続)