先週、池田香代子さんに誘っていただき、京橋テアトル試写室で観たイラン映画。11月初めより岩波ホールで上演されるとか。

 

 「これは、日本では創れない映画だ」──それが率直な感想である。政治的にも、文化的にも、日本には同じものを創る能力がない。意欲もない。

 

 少女更生施設の内部に入り込み、監督の少女に対するインタビューを中心に構成されたドキュメンタリーである。強盗、殺人、薬物、売春などの罪で捕らわれた少女たちである。

 

 といっても、どこにでもいる少女である。面白い話には笑い、悲しい話には涙する。そして、「どこにでもいる」の「どこ」とは、イランだけのことではない。日本にもいるということだ。

 

 少女たちがそのような罪に手を染めるに至ったきっかけは、児童虐待であったり、親族による性的暴行であったり、日本でもよく目にするのと同じである。そして日本でも、児童を更生させるために努力している人たちが、その実態を明らかにしてきている。

 

 だけど、この映画が違うのは、その少女たち自身が、顔をさらして自分の物語を語っていることだ。もう人生をあきらめたような少女が、でも希望をもっているような様子も見せる。希望を持てないまま出ていく少女もいる。自身の言葉で語ることによって、圧倒的なリアリティーを持って迫ってくる。日本の少女たちも同じように感じているのだろうと。 

 

 それにしても、このような施設に何週間もカメラを入れて撮影するわけだ。そして、いわばイランの「恥部」のようなものを見せるわけである。トランプ大統領と抗争する原理主義的な面でしかイランを見ていない我々には、なぜ?どうして?という疑問が生まれてくる。

 

 しかも、この映画のなかで、少女たちはイランの体制へのまっとうな疑問を次々と口にする。「父親が子どもを殺しても罰せられないのに、なぜ私が父を殺すと罰せられるのか」等々。それに対して宗教指導者は、「社会を平穏に保つため」としか答えられない。

 

 そういう映画の撮影を許し、上映を許可するのがイラン政府だ。といっても映画館は許可されず学校とかに限られているそうだが、それでも外国での上映はフリーである。

 

 日本政府はそういうものを許可できるだけ、「言論の自由」というものを大切にしているだろうか。日本の映画監督は、おそらく許可がでないだろうと忖度して、撮影の申請さえしていないのではなかろうか。

 

 イラン政府というのは、逆に、たとえ政府批判になるものであっても、「芸術」とか「文化」とかの豊かさと大事さを知っているということなのだろう。たぶん。

 

 監督が男というのも驚き。少女たちとずっといっしょに暮らして、本音を引き出せている。すごい才能だなあ。それも含めて、ペルシャ以来つづくイラン文化の底の深さを感じさせてくれる映画だ。日本の映画監督、ガンバレ!