現在、各国の安全保障戦略を分類すると、こんな感じになるのではないか。1つは、核抑止に頼るか頼らないかで分けられる。
核抑止に頼る場合も、核兵器を持っていない国は、他国の核兵器に頼るわけだが(これを安全保障の世界では「拡大抑止」と呼ぶ)、その頼り方でこれも2つに分けられる。1つは、NATO諸国のような「核共有(ニュークリア・シェアリング)」にまで踏み込むのか(アメリカと核戦略を共有し、実際に核兵器の使用にも関わるということである)、もう1つは、日本のようにそこはアメリカ任せにするのかということである。
日本で「維新」が核共有の議論に踏み込んで、平和運動界隈で批判が高まった。確かに、日本がアメリカと核戦略を共有するとか、実際に日本が核兵器の投下に関わると想像すると、「よしてくれよ」という感情が生まれることは避けがたい。
しかしじゃあ、平和運動の見地からして、日本のアメリカへの頼り方は、NATO諸国の頼り方と比べ少しでもマシなのかと言われると、そう簡単ではなかろう。日本の戦略だって、結局のところ、いざという時には核兵器を使用することに頼っているという点では、NATO諸国と何の変わりもないからだ。
日本自身が核の引き金は引かないこと自体は大事だという考え方もあろう。しかし同時に、アメリカの核兵器に頼りながら日本自身は手を汚さないという立ち位置にいることが、日本特有の防衛問題への無関心、無責任さを生んでいるという問題もある。また、そうやってアメリカ任せにすることによって、アメリカの核戦略にものを言えないようになり、核使用について歯止めをかける手立てもない立場になるわけだから、究極的にはアメリカに従属する日本をつくってしまっている。
しかも、問題はその先にある。ウクライナ戦争があぶりだしたのは、アメリカは、戦火が自国に及ぶようなやり方で友好国を助けることはないということだ。あの湾岸戦争のように、たとえ同盟国ではなくても、敵国の攻撃が自国に及ぶ恐れがない場合は武力行使を辞さないが、ロシアのような核保有国を敵に回す場合、そのかぎりにあらずということである。
だから、日本もまた、アメリカの核に頼れなくなった時代なのである。「維新」の核共有論議はそのなかで出ている。アメリカだけが核兵器投下の判断権限を持っているのでは、日本のために核兵器を使う判断をしてくれなさそうだと思うから、この議論が生まれている。
もちろん、その議論に乗る必要はないのだが、アメリカの核の傘に頼れないことを前提に考えないと、日本の安全保障論議はリアリズムからかけ離れていく。「維新」の核共有論への批判が、現在の日米関係のほうがマシという議論になるなら、日本の安全は保てないということである。(続)