共産党からの除名撤回を求める裁判を開始して以降、全国の名前も顔も知らない人から支援を受けることになり、感謝している。講演会で呼ばれて参加した際など、そういう人にお会いすることもあり、この歳になって人間関係が豊かになるのを実感する日々である。

 

 昨日、その中のお一人から電話があった。この間、何回も、共産党の中央委員会や住んでおられる県機関に電話をして、私を共産党に戻してほしいと頼んでくれているそうだ。ありがたいことである。

 

 なぜ昨日、私に電話をしようかと思ったかというと、党中央の対応に変化があったからなのだそうだ。相手の名前は聞かなかったそうなのだが、電話で話している最中に、「松竹さんの言うことであっても必要なら党中央としても取り入れていますよ」という話をされたというのだ。いや、びっくりというか、うれしいというか。

 

 そこでその人が思い出したのは、私のYouTube動画だった。「小池晃『謝罪』動画の見方」と題したもので、埼玉の戸田市の共産党をめぐって起きた問題に関して、当事者の2人ともが党中央の方針が明確でなかったことの被害者だと論じたものである。その趣旨をブログの記事にしていたのだが、小池氏がそれと同じことを述べて謝罪したので、本当に私の記事を読んでいるのではないかと思ったのである。

 

 ということで、もしかしたらだけど、私がいろいろと発言することは、党中央にとっても役に立つことがあるのかもしれない。これからも遠慮しないで発言を続けたいと思う。

 

 内容的には昨日の続きだが、Xで私の社会主義論を批判した人が「生産様式」を持ち出しているわけではないので、形式的には続きではない。ご承知おきを。

 

 それにしても過去の社会主義論が「生産様式」論に偏ってきたことが、共産主義運動の混迷を生みだしたと感じる。「生産様式」をAIに聞いてみると、こう返ってくる。

 

「生産様式とは、マルクス主義において、財貨の生産の様相や社会の発展段階を指す概念です。具体的には、生産力(生産手段と労働力)と生産関係(労働者と生産手段との関係)によって構成されます。マルクスは、アジア的、古代的、封建的、そして資本主義的生産様式という4つの段階に分類しました。」

 

 とりわけ、生産手段が社会化されているかどうかが社会主義のメルクマールとされてきた。だからソ連では、工業の国有化が達成され、農業でも集団化がほぼ完成に近づいたスターリンの時代に、「社会主義への移行」が宣言された。1961年のソ連共産党第22回大会で採択された綱領では、なんとソ連は「社会主義の完全かつ最終的な勝利と、共産主義の全面的な建設への移行」の時代に入ったとされた。

 

 でも、自分の土地を失いたくないという農民を弾圧し、虐殺しながら集団化が進められたことに象徴されるように、現実の政治では生産手段の社会化は人権抑圧と一体であった。だから、人権が(政治的権利も経済的権利も含めて)どれだけ保障されているではなく、生産手段の社会化の進展具合をかをメルクマールにしてしまうと、同じ結果につながりかねない。私が日本国憲法の人権規定と社会主義をつなぎあわせているのも、そういう理由からである。

 

 じゃあ、生産手段の社会化には意味がないのか。そうではない。大事なことではある。現在の日本共産党の綱領でも、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」とされている。

 

 しかし、日本国憲法にも、その種の規定は存在するのだ。憲法第29条は、「財産権は、これを侵してはならない」とした上で、次のように規定している。

「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」

「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」

 

 そう。日本国憲法の人権規定(財産権も人権である)は、私有財産(生産手段)を「公共の福祉に適合する」「公共のために用ひる」(社会化する)ことを可能にしているのだ。ちゃんと補償はしないとダメだけどね。

 

 そういう意味でも、社会主義と日本国憲法は密接な関係にある。これは、生産様式は資本主義だが国民の人権は保障されている国と、生産様式は社会主義だが国民の人権は劣っている国と、どちらが社会主義的だろうかという問いにもつながっていく。

 

 いったい何を書こうとしているのか分かってもらえないとは思う。しかし、他の言葉で表現するのは難しい。

 

 私はX(旧ツイッター)は、ブログ記事をアップするだけに使っているので、ほとんど見ることがない。ただ、「お前と関係あるこんなポストがあったよ」と親切に教えてくれる人はいるので、「へえっー」と思うことはある。

 

 そのなかで、私の『シン・日本共産党宣言』における社会主義論に言及し、私が社会主義をめざしていないのだから共産主義者の資格がなく、共産党から除名されるのは当然だという趣旨のポストがあったということだ。私の除名理由として社会主義論が出て来るのは初めてのことである。議論のテーマが広がることは大事なので歓迎したい。

 

 そのうち、そのポストを読んだ上で論じたいと思うが、まず前提的なことだけ書いておこう。それでこのブログのテーマなのだ。

 

 なおこの問題は、すでに神谷貴行さんとのYouTube対談でも論じているので、重複するところが少なくない。そちらを視聴してもらえば、たいていのことは理解できるはずだ。

 

 引用はしないが、私が書いているのは、日本国憲法に規定された権利が十分に達成された社会は社会主義の名に値するのではないかということである。私は十数年前、『マルクスはどんな憲法をめざしたのか』(大月書店)を上梓した際、「マルエン全集」を読破してマルクスが憲法論でどんなことを書いたのかを渉猟した。その結果、もし現時点でマルクスが生きていて憲法を起草することになったら、おそらく日本国憲法を参考にしただろうという結論に到達したのだ。関心のある方は是非読んで頂きたい。

 

 マルクスが何を言ったかだけではない。「権利」「人権」という概念は、マルクスの生きていた時代から質的に飛躍を遂げたので、それも考慮した。

 

 例えば、国連の国際人権規約では(A規約であれB規約であれ)、どんなに人権水準が高いと評価されている国であっても、5年毎に報告書を出すことが義務づけられているが、それはなぜかというと、人権というものの水準に終わりはなく、つねに高みをめざさないといけないと考えられているからである。私をXで批判した人は、私が日本国憲法の人権水準が達成することを社会主義のメルクマールとしていることを批判し、マルクスは無限の改革を求めるのが社会主義だという立場であり、憲法の人権水準論に立つ松竹は社会主義を間違って捉えていると述べているそうだが、国際人権規約が示すことは、そもそも人権そのものが無限の改革を求められているということである。日本国憲法が高い水準で人権を規定しているが、それでも終わりはなく、無限の改革を求められるのである。マルクスの無限の改革論は、いまや国際人権規約として結実しているのである。

 

 日本共産党の綱領は、「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」と明記している。これは、現在の闘いが社会主義へとつながっているということを示している。私はこの綱領の路線を支持し、豊かにしたいと考えている。

 昨日の「『共産党』を考えるつどい」は意義深かったですね。ライブ配信され、すでに編集の上で公開されているので、是非ご覧ください。そこで私が学んだこと、考えたことは、週明けから書いていきます。明日は中学校の同窓会があったりして、時間がありませんので。

 

 

 

 本日は、昨日のために関係者が東京に集合しているので、「Newsレッズ」の検討会があります。基本的なコンセプトを議論します。まったく新しいメディアとして登場させるつもりなので、検討すべきことが山積みです。法人化問題も検討しなければなりませんし、ページレイアウトとかもです。いつみなさんにお見せできる形になるでしょうか。しばらくお時間をください。