今朝 起きた時には
いつもより 2℃ばかり気温が低くて
おっ‼️ 秋が来たか?
って思ったけれど…
今日もやっぱり暑かったね☀☀
そんな暑い中 草刈りをしている方々が・・・
熱中症には どうぞお気をつけください 🍀
昨年 ( 2023年 ) の7月
相続した全ての不動産の売却が
やっと完了して
私は
長年 続けてきた
山林や竹林や畑の管理から解放された
もしまだ売却が終わっていなかったら
今頃 私も田舎で
ブタクサや 牧草や にっくき竹と格闘して
ずたぼろ になっていたかもしれない
考えただけで 恐ろしくなる
私の実家は 酪農との兼業農家 で
何頭も飼っていた乳牛のための
広い牧草畑があったので
草刈りで難儀した牧草は その名残(なご)り
東京の品川で商売をしていた祖父母が
戦後 疎開した田舎で
土地を買い 荒れ地を開拓しながら
少しずつ買い広げていったのだ と聞いている
家の周りの石垣や 井戸の石積みは
わざわざ 高遠 から
専門の職人さんに来てもらって 積んだのだとか…
当時は 多分
あそこら一帯は
山林だったんじゃないかなぁと
思うのだけれど
今みたいに
便利な重機なんて無い時代
とっても
大変な苦労をしての開拓だったのだと思う
両親が逝った後
家屋も含めて
私が全 ( すべ )てを相続したのだけれど
→ 広い農地 (田んぼや畑→農振農用地) や山林も含めると約5000坪
築54年の一軒家 には
屋根の隙間 (すきま) から入り込んだのであろう
ハクビシンが住みつき荒れ始めていた
→ 糞尿で凄いことになっていた
同じ村の中には
主( あるじ ) を亡くして 手入れが行き届かず
瓦 ( かわら ) が落ち 土壁が剝 ( は ) がれ
荒れて傾く家が何軒もあった
その子供達は遠方に暮らしているから
なかなか 来ることもできないんだろうなぁ
なんて思って見ていたけれど
いざ自分の実家 のこととなると
そんな のんきなことは言っていられなかった
そのまま放置すれば
行く末(すえ) は はっきり見えていたしね
相続した後からは
広い農地の草刈りや山林の手入れ
竹林の管理などをしなければならず・・・
自宅と実家は
往復すると
およそ 350km ほどの距離だったので
毎回 日帰りで草刈りに行く・・・
というわけにもいかないし
休憩する場所や
さらに毎年 続けていくためには
泊まれる場所も欲しいよぉ・・・
でも
ハクビシンと一緒は 嫌だわよねぇ・・・
どうしたものか・・・
すると
翌年に 定年退職を迎える予定だった夫が
実家を取り壊して
セカンドハウスに建て替える
ことを提案してくれて
そこからは一気に
実家片付け→解体撤去→セカンドハウス新築
の プラン が動き出した
で
築54年の一軒家を
片付けることになった のだけれど
なにしろ物が多かった
いや
多かったなんてもんじゃなかったよ
私の祖母は(→父の母)
とってもハイカラな人で
朝は コーヒーを飲みながら
トーストに
小岩井農場のバターを塗って食べるのが定番
どこぞの奥様みたいな生活だった
東京で暮らしていたからなのかしらね
そんな祖母は 糖尿病が悪化 して
どっちの脚だったかを失い
母が ずーっと看病していた
その頃の 大量のおむつ やら
ポータブル便器 やら
いくつもの尿瓶 (しびん)やら
汚れた下着みたいなものが
4畳半の押し入れを開けた時に
雪崩 (なだれ)のように
どさどさぁーっと崩れ落ちてきて
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ
って なったのを覚えてる
お客さんも多かったから
鍋や食器類 布団の数も多かったし
旅行好きだった父は 写真を撮るのが趣味 で
大量の写真や何冊ものアルバム
カメラの機材
なども出てきたし
使えなくなった時のために なのか
山ほどの
電化製品の予備も !!→新品
中身が入ったままの漬物樽
も いっぱいあった
トイレは 通称 ぼっとん便所
これはもう どうにもならなくて
汲み取り業者さんに依頼して
バキュームカーに来てもらったけれど
長く汲み取りをしておらず
排泄物が凄かった
両親は二人とも
長く認知症を患(わずら)っていたので
家の中の惨状は ・・・
推して知るべし・・・
うううううううぅぅぅっ( ;∀;)
って なったけれど
ひるんでいる暇はなかったよね
後ろの日程 は 決まっていたから。
解体撤去
↓
役所への届け出
↓
測量やら諸々
↓
ハウスメーカーとの打ち合わせ
↓
地鎮祭→着工・・・
兎に角
できるだけ早く片付けなきゃならなかったから
嫌だ とか 面倒くさい とか
そんな言い訳は言っていられなかったんだよ
お尻には火がついていた
片付けることを決めて
手伝ってくれる人を集めて
→力仕事だったから 男性7~8人位だったかなぁ
私は 実家片付け のために
自宅↔実家往復 350km
高速を毎日 ぶっ飛ばして通った
💨💨
朝は4時出 帰宅は深夜
私が 52歳 の年のこと
あの頃乗っていたのは
5速 MT の PEUGEOT 307
(マニュアル車)
308GTi (6MT)に乗り換えるまでに
11万km 乗ったよ💨
あの車だったからこそ
運転が嫌にならずに通えたんだと思ってる
ありがと ぷじょ。💨
運転は大好き だったから
夜中の運転でも
全然苦にはならず
更年期障害の症状も
運転中はアドレナリンが出ているせいか
全く気にならなかった
不思議ね
あんなに物がいっぱいに溢れていた実家も
7日間連続で通って
お手伝いもしてもらって やっと空っぽになった
でも最後の2日間は
疲れがたまって 眠過ぎて💤
帰りの高速で
自分が
蛇行運転しているのがわかったよ
こわっ
おかげさまで翌年の秋には
新築 平屋のセカンドハウス
が完成し
無事に引き渡しとなったのだけれど・・・
その翌年 夫は 脳梗塞を起こして入院し
ステント内挿の手術を受けたのだが
その際にプラークが飛び
アテローム血栓性脳梗塞 (脳幹 小脳 橋) を発症
その後 半年も入院することになった
退院はできたものの
半身麻痺が残ったまま (要介護)
長くリハビリを続けていたけれど
その退院から 7年後
難病 (膠原病)を発症し
(発症から) わずか9ヶ月で逝ってしまった…
40年近くもの長い長い介護生活
義祖母や義母や 自分の両親も見送り
実家の片付け と 墓じまい もして
長く暮らした自宅 (築40年の一軒家)も片付けて
この片付けも ほとんど一人でやった
URへの引っ越し もして
難病を患(わずら)って
つらい闘病をした夫も見送り
遺品整理も済ませた
喪主施主兼任での葬儀は3回経験
名義のつくものは
体が動くうちに片付けたい
そう思っていたから
不動産も 全て売却できて
心から ほっとしている…
車も処分したしね
自分の これからのこと を考えて動き始めたのは
40代 だったけれど
今年 64歳の誕生日を迎える年になって思うよ
あの頃の自分
Nice(見事‼️)な判断
本当に ありがとぉ
ってね。
そこから
一生懸命 頑張って
たくさんのことを
やってきてくれた自分にも
ありがとぉね。
って言ってあげたい。
明日も元気でここにいる
なんて保証は
どこにもないんだよね
動くなら 気持ちが旬のうちに…
Caption
🌹私がつくった庭で咲いてくれた薔薇