(つづき)
食事は、火が使えますので、しばらくは冷蔵庫の中の物を食料といたしました。三日目ぐらいにはコンビニも食品を並べだしましたので、購入に行きました。しかし数の制限がございまして、一人一品と書かれておりました。それを知ってか知らずか、どこかの爺がおにぎりを5個レジに持ってまいりましたが、店員からたしなめられ、文句を言っておりました。人の性の無常を感じたのでありました。
市内の多くの小中学校などが、避難所になりました。まだ時折おとずれる余震のためと、家が完全に倒壊した方のためでもありました。また車中泊をされる方、キャンプ道具をお持ちの方でテントを立てて生活される方など、人様々な生き方をされておられました。幸か不幸か、この地震が四月の中旬に起こりましたことは、寒くもなく暑くもない気候で、体育館等で過ごすことができたのでありました。小中学校は、無論休校状態が続いておりました。学校が再開しても体育館は避難している方々で使用できませんでした。このような生活は、約六か月ぐらい続きました。非難されていた方々は、ある者は親戚の家を頼ったり、また仮設住宅に入ったりとしていきました。
この街は、震源からやや遠く、そして電気がすぐ復旧したことやガスがプロパンガスであったことなどが幸いでしたが、隣の大都市では水も含めて、これらの3つが約ひと月も止まっていたということでございます。とくに高層マンションに住む私の友人は、電気が止まってエレベータが使えないので、水を十二回まで毎日何回も運んだとのことでございました。また、都市ガスは止まり、調理もIHでございますので、カセットコンロで料理を作ったとのことでございます。ブルーシートは市からの配給がございましたが、さすがにカセットボンベの配給はありませんので、ホームセンターからボンベの姿がしばらくは消えたそうでございます。
余震は、その後しばらく続きましたが、幸いにも小さなものばかりでした。三か月もすると人々は地震にも慣れていき、余震が起こると「今のは震度3だ」とか「いや、震度2」だとか言うようになりました。人は、のど元を過ぎれば、過去をわすれると、なんと呑気な生き物でございましょうか。(つづく)