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 鷹狩りに向かう途中か、その帰りだったのだろう。

 中原街道を西へと向かう途上、滝山街道と交差する辺りで、家康は、この地に亡霊が出るという話を聞くことになる。Y市のY霊苑内に建立された姥供養之碑には、慶長元年(1596年)のことと記されている。

 家康が天正18年(1590年)8月朔日に駿府から江戸に移って6年が経過している。荒廃していた江戸城も、住まいとして、城として、それなりの姿に変わり、漸く落ち着いた日々を取り戻し始めたころか。家康を悩ませていたのは膠着状態に陥っている朝鮮情勢とそれを知らずに朝鮮支配、更に中国支配の夢を抱き続ける秀吉のことか。家康の長い人生の中で、比較的平穏な、確かに、鷹狩りに心行くまで興じられる時期だったかと思う。

 街道名として被せられた「中原」とは、駿府への往来や鷹狩りの際に宿舎として家康が使用した平塚の中原御殿を指し、中原街道は、そこと江戸とを結ぶ街道である。今も東京と神奈川を結ぶ基幹道路の一つとして機能している。

 滝山街道は中原街道と比べると格段に知名度は低い。しかし、戦国時代には、特に相模から関東全域に勢力を広げていた小田原北条氏にとっては、その重要度は中原街道を遥かに凌駕していた。小田原北条氏の戦略上重要な拠点となる二つの城、八王子の滝山城と鎌倉の玉縄城とを結ぶ道だからである。残念ながら二つの城ともわずかな遺構が残るだけで、(滝山城は大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり、今は桜の名所として知られている。玉縄城が聳えていた地には、私立女子中高一貫校、清泉女学院中学高等学校が建っている。)往時の面影はない。復元される予定もないようだ。

 家康に亡霊の話をした人物が誰なのか、どの様な人物なのか記録は残っていない。家康の近臣なのか、その地の武士なのか。が、亡霊に苦しむ村人を哀れに思って、いずれかの者が家康に進言したのであろう。

 この亡霊は女で、村人を恐れさせるに十分な、理由のある女だった。

 概略はこうだ。

 亡霊となった女の夫は修験者だった。

 夫は家を空けることが大半で、常に諸方を歩き回り、ついには家に帰らなくなった。女は夫を諦めきれず、探しめぐった末に、悲しみのあまり発狂した。そして、村民に危害を加え始めた。困り果てた村民はついには殺害を決意し、永禄11年(1568年)花見の宴に女を誘い出し、毒殺した。しかし、悲劇はおさまらなかった。女は亡霊となり、夜ごと街道にあらわれ、今も村民を脅かしている。

 

 家康はこの話に心が動いた。

 話を信じたわけではないだろう。何しろ「亡霊話」なのだから。

 しかし、村民が今も苦しんでいることと、女があまりにも哀れであることは家康にとって看過しがたいことだった・・・。

 家康は歌を手向けた。

 

      相模なる幸田が原の山姥はいついつまでも夫や待つらむ

 

 すると、亡霊は消え、村民は喜んだ・・・・。

 

 結局、この村を苦しめた亡霊問題は家康の「功」によって大団円で終わるのだが、どうも腑に落ちない。

 

 夫を探しあぐねて、女は狂ったとある。探し疲れて狂うことはあるのだろうか。あったとしても、夫が家に帰らないことと村民は無関係だ。なぜ女は村民に危害を加えたのだろう。本当に村民に危害を加えたのだろうか?

 村民は毒殺した。理由もなく、村人を襲ったのだとしたら、仕方がなかったとも思う。しかし、だとしたら、女が亡霊になることはありえない。亡霊(怨霊?)は亡霊自身がなるのではない。何らかの、後ろめたさを感じる、命を奪った側が作り出すものだからだ。

女は村人側になんら落ち度が無いにもかかわらず、村人に危害を加えた。だとしたら、村人側が後ろめたさを感じる筈もなく女を亡霊にする根拠とはならない。

 では、なぜ女は亡霊になったのか。

 逆から考えると、真相はこう見えてくる。

 村人は女を亡霊にした。村人に後ろめたいことがあったからだ。村人の罪の意識がそうさせたのだ。だとしたら、村人は自らの利益のために女を毒殺したのではないか。そうであれば、それは奥深く隠蔽しなければならない。そこで、殺さざるを得ない話を作り上げた。そして、出来上がったのが、家康が聞かされた亡霊話だ・・・。