従前の設備 - 安く大量に手に入った時代の石油を燃料として消費する設備 - は、「石油をたくさん使ってもいいから、とにかく所定の性能を出すこと」を念頭に作られていました。

不正確ですね、この表現は。もっと正確に表現しましょう。

正確に言うと、「石油は安く豊富に手に入ったので、節約しながら所定の性能を発揮する二律背反の実現など、最初から考える必要も無かった」のです。石油文明をリードしたアメリカ社会は特にそうでした。

自動車もそうでしたし、冷暖房もそうです。冷蔵庫などの家電もそうでしたし、航空機もそうです。金のある人に限定されているとしても、個人用の航空機がかなり普及している社会ですよね、アメリカは。

地味ですがアメリカと張り合っていた旧ソ連も結構じゃぶじゃぶエネルギーを使う方した。今のロシアもそうだそうですが、都市ガスを何時間も連続して使っても、ガス料金が変わらないのだそうです。従量制じゃないわけです。

私の勤務先が関わっている世界 - 化学産業 - も伝統的にはそういう世界です。原料も石油ですが、その原料を加工する方法論も「石油から取り出したエネルギーをがんがんつぎ込む」ことによるものです。

原料に高温・高圧をかけて、化学反応をおこさせるわけです。エネルギーをがんがんつぎ込んで、強引に化学変化を起こさせます。プラスティックは石油の塊ですが、単に「原料が石油である」ということ以上の意味を持っているわけです。

こういう社会が現在の地球上で前提とされている社会です。もちろん、70年代の2度の石油危機を教訓に、部分的に変わって来ています。それでも、まだまだ cheap oil 時代の惰性がたっぷり残っています。

「たっぷりエネルギーを使う」前提でいるがために、再生可能な自然エネルギーはなかなか石油を代替できるだけの規模に達しません。石油系エネルギーの規模があまりにすごいので、適わないわけです。

しかし、もし、「cheap oil 時代の惰性」が変わってしまったら、もしも、「世の誰もが節約するようになったら、あらゆる企業がエネルギーを節約する努力を常にするようになった」としたら、何が起こると思いますか?

「考えたことがない方」は少なくないかもしれませんね。

私が思うに、そこに「見落としがちな前提」が隠れているのです。我々の無意識の意識の中に。

現在の社会が当然の前提としている、「石油や天然ガスをじゃぶじゃぶ使う状態がそのまま続く」、「その状態から人々は変えられない」ということを前提として、代替エネルギーを見つめていませんか?