永楽帝の親征は、1410年、1414年、1421年、1422年、1424年の5回行われた。

[最初の遠征]

一気にモンゴル高原奥深く(北京から北北西へ約1000kmくらい)まで入り込み、タタール部君主の中核部隊のいるところを攻撃した。タタール側は敗走した。永楽帝はそれ以上の追撃を諦め、北京へ帰還した。

敗走したタタール部は西へ移動した。その結果、モンゴル高原西部の山岳地帯にいたオイラート部と対峙することになった。

遠征から2年後の1412年、タタール部の君主オンジェトゥをオイラート部の君主マフムドが殺害に成功した。オンジェトゥの部下だったタタール部の有力者アルタイは脱出し、明に支援を求めて投降した。明はアルタイに王号を与えて自陣営に引き込んだ。

これがオイラートの対明敵対的態度を招いた。

[2回目の遠征]

オイラート部が明に対して敵対的な態度をとるようになったのを理由に、永楽帝は1414年に再び50万人を率いて親征した。

現在のウランバートル付近まで侵攻し、その地にいたオイラート部を撃破、マフムドは敗走した。

1回目と2回目の遠征を見ると、どちらも敵の首領を殺害或いは捕縛することに失敗している。そもそも敵の主力を壊滅できたわけではなかった。逃げられてしまっている。遊牧民だから、どこか特定の場所に帰らなければならないわけではない。家畜が草を食える限り、生活に困らない。時間をかければ勢力を立て直すことは可能だ。

叩きのめすのでなければ自陣営に引きずりこみたいところだが、そうできたわけでもない。