1226年、チンギス・カン率いるモンゴル部隊は西夏を攻撃し、翌1227年に攻略した。西夏王朝は滅亡した。この攻撃の最中にチンギス・カンは死亡した。(註1)
彼には四人の息子がいた。それぞれの分担地域は以下のようなものだった。
長男ジョチは当時すでに死亡 ・・・ その子オルダ: 今日のカザフスタン北東部
次男チャガタイ ・・・ 今日「東トルキスタン」と呼ばれている地域の大部分
三男オゴデイ ・・・ 今日「ジュンガル盆地」と呼ばれている地域の西部
四男トルイ ・・・ モンゴル高原
また、チンギス・カンの弟オッチギンがモンゴル高原東端~マンチュリア地域を担当していた。
西夏を倒した後2年間は四男トルイが国権を代行し、その後モンゴル高原で遊牧民の集会「クリルタイ」が開催され、1229年三男オゴデイが次期「カン」として選出された。
翌1230年、モンゴルは金を攻撃した。モンゴル側の兵力が10万、金側が30万。モンゴル側は軍を3つに分けて進撃した。
次男チャガタイがモンゴル高原で後詰。
四男トルイは右翼軍。陝西省を南下。
オゴデイは中軍。山西省を南下。
オッチギンは左翼軍。河北省を南下。
1232年、トルイ率いる右翼軍が金の主力20万と会戦し勝利した(註2)。その後、金の帝室関係者が首都開封を脱出し南下したが、1234年南宋との国境付近でモンゴルと南宋の部隊に滅ぼされた。
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註1: 戦死ではなく、避暑中に病死(?)した。場所は現在の寧夏回族自治区の南部、固原県付近。この地域は、魏晋南北朝期より西域と西安(長安)とを結ぶ交通ルート上にあたっている。高原地帯で遊牧民等が夏に集まってくる地域。ソグド人の墓が最近発掘されて話題になっている。
註2: オッチギンの左翼軍はゆっくり南下していたが、河北の住民がモンゴル軍を避けて黄河を渡河し、開封周辺まで逃げ込んだ。これにより金の首都開封では食糧不足になってしまい篭城戦をとれなくなってしまった。そこで金側は接近してきたモンゴル右翼軍と会戦すべく開封を出た。金側がモンゴル右翼軍のおそらく4~5倍の戦力を持っていたが、負けてしまった。食糧不足が効いていたものと思われる。
彼には四人の息子がいた。それぞれの分担地域は以下のようなものだった。
長男ジョチは当時すでに死亡 ・・・ その子オルダ: 今日のカザフスタン北東部
次男チャガタイ ・・・ 今日「東トルキスタン」と呼ばれている地域の大部分
三男オゴデイ ・・・ 今日「ジュンガル盆地」と呼ばれている地域の西部
四男トルイ ・・・ モンゴル高原
また、チンギス・カンの弟オッチギンがモンゴル高原東端~マンチュリア地域を担当していた。
西夏を倒した後2年間は四男トルイが国権を代行し、その後モンゴル高原で遊牧民の集会「クリルタイ」が開催され、1229年三男オゴデイが次期「カン」として選出された。
翌1230年、モンゴルは金を攻撃した。モンゴル側の兵力が10万、金側が30万。モンゴル側は軍を3つに分けて進撃した。
次男チャガタイがモンゴル高原で後詰。
四男トルイは右翼軍。陝西省を南下。
オゴデイは中軍。山西省を南下。
オッチギンは左翼軍。河北省を南下。
1232年、トルイ率いる右翼軍が金の主力20万と会戦し勝利した(註2)。その後、金の帝室関係者が首都開封を脱出し南下したが、1234年南宋との国境付近でモンゴルと南宋の部隊に滅ぼされた。
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註1: 戦死ではなく、避暑中に病死(?)した。場所は現在の寧夏回族自治区の南部、固原県付近。この地域は、魏晋南北朝期より西域と西安(長安)とを結ぶ交通ルート上にあたっている。高原地帯で遊牧民等が夏に集まってくる地域。ソグド人の墓が最近発掘されて話題になっている。
註2: オッチギンの左翼軍はゆっくり南下していたが、河北の住民がモンゴル軍を避けて黄河を渡河し、開封周辺まで逃げ込んだ。これにより金の首都開封では食糧不足になってしまい篭城戦をとれなくなってしまった。そこで金側は接近してきたモンゴル右翼軍と会戦すべく開封を出た。金側がモンゴル右翼軍のおそらく4~5倍の戦力を持っていたが、負けてしまった。食糧不足が効いていたものと思われる。