鮮卑の北魏が、有力な軍人2名によって東西分裂させられたところまで前回は書いた。

この有力者2名は、それぞれが東西の政権を乗っ取った。東側が「斉」と称し、西側が「周」と称した(註1)。このうち、西側の政権で軍制改革が行われた(註2)。

胡人の数家族の小集団~小部族集団ごとに部隊を編成する一方で、漢人も農村の集落ごと/地域ごとに部隊を編成した。この部隊を2つずつ組み合わせて大きな部隊を編成し、それをまた2つ組み合わせて... というやり方で軍団を6つ編成した。(註3)

皇帝は6軍団のうちの1つの指揮官を兼任した。他の有力者(武川鎮出身の胡人系有力者)が他の5軍団の指揮官となった。軍団より下位の各階層では、胡人や漢人の貴族(大牧場・大土地所有者などの有力者)が部隊を率いた。

6軍団の指揮官は全員政府機構の文官のうちの最高位(今の日本でいう大臣級)を兼任した。この体制が、完全にではなかったが、おおむね唐代初期まで継続した。(註4)

この体制は以下2つの点で当時のシナ社会に適合していたとmattは考えている。そして、これゆえに東側の北斉政権と異なり西側の北周~隋政権では内紛が深刻化せず、人口・経済力・兵数いずれでも劣勢だった西側の政権が最終的な勝者となることができたのだと考えている。(註5)

(1)牧畜民と農耕民が混住していた社会において、その両方を同一の制度で政権に登用することができたこと。経済力に劣る胡人を否定する方向性で社会を統合しようとした北魏政権と異なり、胡人を排除しないやり方で(註6)社会を統合することに成功したこと

(2)シナ農耕社会では大土地所有制が進行し地域ごとの有力者が割拠する傾向が強かった(註7)が、農民出身の郷兵を各地の有力者に率いさせて国家機構に参加させるやり方で大土地所有者達を政権に取り込むことができたこと(註8)

この基盤に支えられて、北斉政権を倒した北周政権の君主から奪権した鮮卑/漢混血(?)と思われる有力者(註9)が南朝の陳王朝を倒し、シナを再度統一した。(註10)

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註1: 歴史上は、東側を「北斉」、西側を「北周」と呼ぶ。

註2: 「府兵制」と呼ぶ。徴兵制と言っていいだろう。

註3: 牧畜民部隊か農耕民部隊かを問わず、末端の部隊を「郷兵」と呼ぶ。

註4: 以前、隋唐政権が軍事政権である旨述べたが、その実態はこういうことだ。こういう人事はシナの歴史では典型的とは言えない。文官が武官に優越する傾向が古くからある。欧州の領主・騎士や日本の武士のような、政治家と軍人と地主を元から兼ねている社会階層がシナでは発達しなかった。重要な問題だと思うので、裏ブログでこれから色々ものしてみようと思っている。

註5: (日本の)歴史学者はこういう書き方はしていない。この部分はmattの個人的見解だ。個人的ではあるが確信している。USAやローマも良い例だが、異種族を同一の原則論で統合できたら、その社会は強い。なお、北周が北斉を倒すことができた理由について面白い異説があるので、後日紹介したい。

註6: 結果としてその「やり方」は、「軍制主導で社会を統合する」という選択だった。

註7: ここでは書いていないが、南朝でもその傾向は極めて強かった。大雑把に言うと、長江の下流域・中下流域・中流域ごとに割拠していたと言える。不正確な比喩だが、現在で言うと「上海(南京)vs武漢vs重慶(成都)」の対立があったとイメージしてもらえればいい。

註8: 騎馬戦力が基幹にあることが農耕社会の大土地所有者層を従わせることを可能にし、欧州や幕府御家人体制のような分権的中世feudalismよりもずっと中央集権的な国家の樹立をシナにおいて可能にしたのではないかとmattは考えているが、こういう見解は少なくとも日本の中国史学界では今のところ出ていないようだ。

註9: 隋の初代皇帝楊堅のこと。有名な隋の煬帝の実父。漢代以来の名族楊氏(漢人系)の子孫と名乗っているが、鮮卑系ではないかと疑われている。楊堅の実父は武川鎮の出身。妻(皇后)は匈奴系有力者独孤(ドッコ)一族の女性。

註10: 再統一は589年。分裂した時期を316年とすると、273年間分裂時代が続いたことになる。後漢末期の黄巾の乱から分裂時代が始まったと見るなら、405年間分裂時代が続いたことになる。