5月30日の「胡と漢(17)」の⑤について。
以下は、実を言うと、基本的に司馬遼太郎の受け売りだ(註1)。
匈奴、柔然、突厥、契丹、蒙古などは、純粋に遊牧のみをして暮らす人々が中核を成している(このほかに狩猟も行う)。「純粋遊牧騎馬民」と呼ぶことにしよう。
女真とその後身「満洲」は、牧畜を主として営みながらも、ある程度粗放な農業をしている。また狩猟も行うし、漁労(註2)も行う。「半農半牧騎馬民」と呼ぶことにしよう。
「純粋遊牧騎馬民」よりも「半農半牧騎馬民」の方が、歴史を結果から見ると明らかに農耕社会になじんでいる。
匈奴の一部、南匈奴は確かに農耕社会に入り込み、最終的には数百年かけて農耕社会に溶け込み同化した。が、匈奴全体の歴史を見ると、基本的に農耕文明からに溶け込むような人達ではない。
匈奴が強大であった時期には、漢を圧迫はした。しかし「農耕地域を直接占領して農耕社会の君主を兼ねる」という行動には出なかった。
匈奴が東西に分裂し、その東側がさらに南北に分裂し、その南側だけが華北に移住した。それでも、彼らが同化するには数百年を要した。
突厥も匈奴と同様、最初から農耕社会を直接占領することには関心が無かった。軍事的な優位を元に、農耕社会の政権を服従させることができれば(そして貢物を得られれば)十分だったわけだ。それ以上のことをすると、遊牧民の生活様式が壊れかねない。
契丹は華北のごく一部を直接占領支配したが、農耕社会に同化することは無く、遊牧生活を変えたりはしなかった。
蒙古はもう少し進歩し、農耕社会を直接占領した。が、農耕社会に同化することは無く、自分たちのidentityを保ち続け、遊牧生活のライフスタイルを農耕社会の中においてさえ維持し続けた(註3)。明に華北から追い出されても、蒙古という集団は残り、今日まで続いた。
純粋遊牧騎馬民は、「遊牧」という生活様式に自信を持ち、頑として変えようとしなかった人達だ。
半農半牧騎馬民の女真/満洲は異なって見える。女真の金は華北を直接占領支配し、華北内部に首都を移動させた。すると、漢人社会の文化に数十年のうちに染まってしまった(註4)。
満洲の清はChina proper 全体を支配し、百数十年のうちに固有の言葉満洲語を失い(註5)、ほとんど同化して今日に至っている。
この差が何に由来するのかを解明した学説が存在するわけではないのではっきりしたことはまだ言えない。mattは(そして司馬遼も)元々から持っていた生活様式が大きく影響しているのではないかと考えている。元から農耕を曲がりなりにもやっていた場合、シナ風の生活様式はすばらしいものであり、かつ受け入れやすいものとして目に映ったのに相違ない。
上記の諸集団を見ると、マンチュリアから起こった集団は半農半牧騎馬民である可能性が高いのかもしれないとも思っている。今のところ憶測に過ぎないが。(註6)
鮮卑、夫余(フヨ)、高句麗はいずれもマンチュリア(鮮卑はモンゴル高原との境目付近)から勃興した集団だ。ひょっとしたら半農半牧だったのかもしれない。が、今のところはっきりしたことはmattには言えない。後日何らかの説を見かけることがあったらご紹介しよう。
さて、長々と「胡と漢」を書いてきた。ひとまずここでお休みとしたい。いつ再開するかはまだ決めていないが、いずれお知らせする。多分7月下旬かそれより後になるだろう。次回からは、「後唐:安史の乱~元(蒙古)の北遷(755年~1360年)」を綴るつもりだ。
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註1: 司馬遼太郎の対談集や随筆に書いてある。
註2: 純粋に遊牧だけする騎馬民は、獣や鳥を対象に狩猟することはあっても、魚をとることはしない。もっとも、現在のモンゴル人(外モンゴルの)は川で魚釣りをするそうだ。
註3: 契丹と蒙古はシナ中原社会の中で彼ら自身の生活様式/彼らの集団的identityを維持し続けた。どうやって維持したかについては、後日755年以降の歴史について書く際に説明したい。このことは、次回以降の重要なテーマの一つとなるだろうと思っている。
註4: 金と清の皇帝には、書などに優れるシナ風の文化人が輩出している。こういったシナ文人風君主は、匈奴からも突厥からも契丹(遼)からも蒙古(元)からも出なかった。農耕社会に対する距離の置き方の違いがこういうところに現れていると思う。契丹や蒙古のように、シナ中原を直接支配していながら同化されなかったことは、純粋遊牧騎馬民の農耕文明に対するある種「拒絶」を表しているのではないか、とすら思えてくる。
註5: このブログ上で前述したが、新疆ウイグル自治区の天山山脈の中に、錫伯(シボ)族と呼ばれる満洲語の方言を話す少数民族が現在でも居住している。北京、マンチュリア、内蒙古には満洲人の血を引く人々が相当数(おそらく1千万単位で)現在でもいるのだが、言語的には漢人にほぼ同化しているとのこと。
註6: モンゴル高原と比べると、マンチュリアは降水量が多くかつ夏場の気温が高い。だからモンゴル高原と異なり、マンチュリアでは農業が可能だ。現在では穀倉地帯になっている。